朝
遠巻きにぼやけている文明の灯りが視えるのに、一向に里へ降りれる気配はなかった。
「どうして…どうして森から抜け出せないの!」
四方を囲む背丈の高い針葉樹林だけが私を見ていた。月明かりも届かない奈落の底で道もくそもなかった。足元が土なのかも分からない恐怖の世界で、涙を流していた。
おうさまは行けと言っていたのに森は私を里へ、元の世界へ戻してやりたくないようだ。
それも全て勝手な勘違いで彼女は行けとも、行くなとも告げていなかったのか。
冷たい靄だけが包み込んでいる。途方に暮れた私はついに足を止めてしまった。
「ネムスフキー!見てるんでしょう!あたしを里につれていってよっ!」
彼はこの森のどこかで私を見ている。監視して後をつけている。送り狼の如く私がいつ転ぶか待ち遠しにしているのであろう。
転んで何も歩けない。──降参だ。
「ネムフスキー!」
大人げなく絶叫して──彼の名を呼んだ。それは里の人にとっておぞましい獣の雄叫びに聞こえるかもしれなかった。空虚な夜に私の救助信号は空しく消えていく。
けれど。遠くの、山のどこかでか細い遠吠えが返ってきた。哀愁を帯びたそれはやがてもう一つ、太く自信に満ち溢れたものが加わった。
地を揺らす野太い地鳴りの如し叫びだった。腹の内が震えるほどの威勢は何かを呼び覚ます。
まるでやまびこである。伝播して広がっていく。どんどん数を帯びて、さまざまな声音が一つの音に加勢していく。何も見えない視界で彼らの叫びだけが響いている。
山犬の遠吠えだ。
それも村を轟かす遠吠えが世界を揺らすのだ。得体のしれない遠吠えは人間が耳にしただけで恐怖を覚えるだろう。
山が吠えているような騒音に人間たちは何も反応しない。うんともすんとも言わない。無情なほど静まり返って、変わらない。
きっと聞こえないのだ。
狼は人の世界では──「あっち」では虫の音ほどの雑音でしかないのである。忘れてしまったその日から人間たちは狼の気配を感じとれなくなった。
私の鼓膜を揺らすおぞましい遠吠えはやがて最高長を過ぎ溶ける如く消えていった。余韻を残してひっそりと終わる。
それは何度も聞こえていたはずの合図だった。
朝がやってくる。
全てをかき消してしまう朝がくる。
鳥が鳴いた。
警鐘を彷彿させる鳥のさえずりを皮切りに野烏が鳴いた。眠っていた光ある獣たちが瞼を開け、むくりと顔をもたげる。
「こっち」の者どもにとっては恐怖ではなかった。狼たちの合図をものともしなかった奴らがもそもそと動き回るのを耳は感知する。
──山から出れなくなる。
太陽が追いつこうと山の際から白ませていく。そうだ。
私も朝焼けから逃れなければ…消えてしまう。消されてしまう。これまで。この夜に進展したことが全部白紙にされてしまう。
森の出口すら見つけられないで終わってしまうのは全くもってだった。
焦燥したって意味がないのは十も承知だった。
朝から逃れることなんてできない。この星に住んでいる限りどこへっていも朝のこない場所なんてありやしないのだ。
私の足元を駆け抜けていく数多の獣たち。彼らはどこへ向かうのだ。
里から逃れていくのだろう。
ならば。私は逆方向へ向かえばいい。チョゲに連れられてやってきてしまった迷宮から逃げだすのは、それしかない。
冷たく鋭い息をはく獣たちは余所を見張ることもない。一直線で夜闇の濃い方向へ突進していく。
「どいてっ!」
ごうごうと通り過ぎていく獣の影を押しのけて駆け抜ける。「ぜんぶ」の光と同類の曙がある方へ向かって、精一杯手を伸ばして。
数多の獣たちが唸りを上げて夜明けから遠ざかっていく。皆息を切らして野山をかけていく。
亀裂の隙間がある。鬱蒼と天を覆い隠した木々から抜け出せる隙間があった。
夜明けと早朝の間にしか開かない穴へ私は転がるように滑り込んだ。
「いたいっ!」膝を摺りむいてバランスを崩す。照らされて浮かびあがっているのは急斜面だった。止まらない足に戸惑いながら水面を垣間見る。川だ。
現実世界の象徴ととれるきらめいた水面がゆらゆらと揺れている。
木が開け、目が痛くなる。
朝だ。
朝がやってきた。