(いつかの時間)エイコとホーム
夜の帳が降りてきたところで彼女は腕時計をちらりとみた。ゴールデンタイムにさしかかる針先が忙しなく再び時を刻んで行く。
「そろそろ家に戻らないと。なにかと世の中物騒だから親が心配してる。」
腰を上げてスカートについた砂利を払う。
「恩着せがましいけれど、もし、またあの子に出くわしたら私のこと、伝えておいてくれないかな。また夏にくるって。君が覚えている間に会えることを祈るよ。」
――また、夏にくる?
「ヤミ…っと、詠子さん。転校するの?」
彼女は私の問いをなあなあにするかのように歩きだした。「あたしの家はちょっと変わってるから、この先どこへ行くか分からないんだ。」
転勤族ってやつだろうか。白々しい笑いに違和感を覚えたのは彼らたちなりの複線だったのである。
「けど、ここって詠子さんの両親の田舎なんだよね?」
「うん。お母さんの。」
と詠子さんはそっけなく言い放つ。まあ当たり前であった。初めてといって等しいぐらい会話を交わした人へいきなり馴れ馴れしくするのもどこかおかしい。彼女が人探しをしてたしとてもその本髄を私へ話してくれはしないことは、この猿橋だって分かりきっている。
彼女に至ってはめんどくさいクラスメイトに纏まりつかれているぐらいとしか考えているかもしれない。
「…お母さんが言ってたんだけれど、ここって野犬が多いらしいね。」
なにかと世の中物騒だからと誰しも噂にする「野犬」。どこから湧いたのかも不明で今後どうなるのかも分からない。村役場も途方に暮れている。
飼いきれなくなったペットを野山へ放す不届き者がいるせいでイノノシや山の獣の悪さより悪質なものとなっていた。
「私たちには関係ないよ。どうせ、山に入らなきゃアイツらも襲ってこないから。」
「そうかなー捨てられた相手はずっと憎んでるものだよ。人間を。」
どきりとさせることを口にする。闇のイメージを持つ彼女が口にすると尚更。
「あと、ここって犬にまつわる面白い伝承があるんだってね。お父さん、そうゆう話が好きなんだ。柳田国男の本を読んでから各地の伝承やらにな興味を持ってしまって。」
「へー面白い趣味を持ってるんだね。」とぼとぼと歩いている夜道がいつもより暗く見えるのは彼女の語り草のせいだろうか。
愛想笑いがばれないよう夜闇に溶け込む。彼女もきっとつまらない帰途をそつない会話(しかも地元の)で解消しようとしている。
「犬」。
野犬がいるのも彼女の言う犬の伝承の呪縛だと?
まあ、お聞かせ願おうじゃないか。
「…昔、ここに可哀想な犬がいたんだとさ。その犬は娘のクソを始末するためだけに飼われた、可哀想な犬だった。その犬は家の者どもにお前の嫁は―まあ、話は長くなるから端折るけど犬と娘は結婚することになったんだ。めでたしめでたし。」
「へー。じゃああたしたちはイヌがご先祖さまなの?ぷぷっ皮肉なもんねっ。そんで犬に苦しめられてるなんてさっ」
犬と人の間に産まれた異形の子孫。なんだか笑っちゃうおはなしだ。きっと昔の人も暇人だったに違いない。
「猿橋さんって噂を真に受けるタイプ?」
「え…そ、そうかな。」
「だって、ありもしない不確かな伝承で猿橋さん笑ったでしょ?信じてなかったら野犬に苦しめられてる現状を笑ったりしないし。」
真意の読めない彼女の顔を私はムッとして見つめた。意外と、いや、予想通りシチメンドクサイヒトだった訳だ。
「田舎なんて噂しか楽しみがないもん。」
「そうだね。結局ヒトが一番気にしてるのって噂なんだよね。誰それが結婚したとか何を食べたら健康になるとか、ありもしないようなことに振り回される。それが人だよ。私のありもしない家庭環境の噂を面白がって流してる光子さんも、聖女なんてもんじゃない。ただの人だよ。」
彼女の訥々と独白の如く語られるお話に気を引いたフレーズが入っていた。光子。光子が…詠子さんの家庭環境を吹聴している?
「あの子、そんなことするような人じゃない。どこで聞いたの?もしかしてでっちあげ?」
「ふふ。これも噂になっちゃうの?じゃあ言わないわ。」
詠子さんの意地悪い笑みで全てが怖気づいてしまう。私は所詮クラスメイトの下っ端。魔女と対峙できるほど強くないのである。