私が住んでいた村とぜんっぜんちがう
「おそいよっサルハチ!」
弾丸のようにチョゲが駆け抜けていく。流石は獣だ。駆けて行くその姿は猟犬の如く惚れ惚れするものがある。
「もぉむりだよぉ!」
無様に泣きべそをかきながら無人の村を走り抜ける。クマは車と同等の速度で走れるというし、私なんて一瞬で追いつかれてしまうかもしれない。公民館まであと少し。
噛まれた場所がじんじんと熱を発している、アドレナリンのおかげがそんなに痛くない。辛いのは息が切れて肺が張り裂けそうなことだ。
人は走るのに向いてない。獣としては無力な弱者で、文明がなければ丸裸にされたようなものだ。
そうか。見放されたんだ。私は人の住む安全な社会から弾き出されたんだ。
獣が蠢く、獣だけの通りが横行する世界に迷い混んだのだ。
何故?何をして私はこの混沌に放り込まれた?―思い出せない。さっきから分からないし、思い出せないばかりだ。
公民館と呼ばれている一階建てのひらべったい建物はリフォームしたてで生活感は…ないはずだ。しかしたどり着いた「公民館」はどんよりと沈んでいて、鄙びているように思えた。
「村長こないだも鍵閉め忘れてたし…今回も。」ボケが始まり戸締りを忘れていると父が愚痴を零していた。なら、今回も。
期待を胸にドアノブに手をかけ掴み、回す。
「開かないっ!なんでよっ!」
蹴りを一発御見舞した反動で尻もちをついた。踏んだり蹴ったりで涙が枯れそうだ。「私が何したっていうのよ!」
「何もしてないよ、サルハチ、なにもしてない…」人面犬がくるくると私の周りをうろつく。悪夢だ。陳腐な表現だけれど早く夢なら冷めてほしい。
「泣かないでよぉ。」
ぺろぺろと頬を舐められそれ所じゃなくなった。仕草は犬だけど舌は正真正銘の人の舌!おまけにヨダレでびちゃびちゃになりとっさに押しのけた。
「うわあ、びちょ濡れになっちゃったじゃん!うう…」
「わは〜泣き止んだぁ。」
「分かったわよ!泣いたって、無駄だよね。…違う場所に行こう。村役場に行こう、そこならなんとかなるかも。」
土埃を払い立ち上がる―ふと近場に転がっている大きめの塊があった。アスファルトが劣化し剥がれ、石になった物。インフラ整備が遅れがちなこの村では日常茶飯事だ。
石…。硝子が嵌められた変哲もないドア。網入りガラスという種類で学校などで見かけたことがある。石で割れるのなら、状況は変わるかもしれない。
―覚悟がいる。命より重いものはない、ルールを破るよりも。
「まだ死にたくないっ!」
投石は上手くいった。軌道は少しづれたけれど。「きゃーっ!」
ガラスの割れる音が静かな夜に響き渡る。初めて民家の窓ガラスを割ってしまった…不良の仲間入りだ。飛び散ったガラス片に驚いてしまったけれど怖気付いている場合ではない、内側の鍵を外せばいいのだ。
手探りでドアノブを解錠する。ドアが闇に溶け入り、埃臭さが鼻をついた。おかしい。つい最近公民館はお祭りの打ち合わせで賑わっていたはずである。
何年も使われていないなのような有様に戸惑う。下駄箱に厚い埃の膜がはられている。いや、廊下だって。
「ひゃートゲトゲたくさんだあよ。」足元でチョゲがガラス片を前に、足踏み状態に陥っていた。しょうがない。抱き上げて土足で玄関へあがった。
もしまた動物がいたら絶体絶命だ。利き手に石を握りしめ、五感を研ぎ澄ます。試しにスイッチを押すと、電気は通っているようで一気に視界が明瞭になった。私が目にした公民館よりも随分年季が入っているように思える。
やはりこの村は私の生まれ故郷ではない?
ドアを閉め(破壊したので役割は無に等しいが)奥の宴会場に身を隠す。やっと気持ちが休まる場所にたどり着いた気がした。
「ここはなんなの?」
「ここ?ここはココだよ。」
「私が住んでいた村とぜんっぜんちがう。」
チョゲは最初私に「なるへそー。そなたはここのニンゲンではない。」と言った。ここの人間?他に人間がいるというの?
「私の他に人っている?」
「サルハチがいると思えばいるし、いないと思えばいる~。」またへんちくりんなことを。
人面犬は座布団の座り心地を確かめ、楽しそうに鼻歌交じりだ。こちらは生死をかけた逃亡を繰り広げているというのに。
「チョゲねえ、クマの臭い分かるよ。教えてあげよっか。」
焦燥しきっている私にチョゲは藁を差し出してきた。人の顔面をしていようとも彼女は畜生の身、きっと嗅覚は優れているに違いない。
「ホント?じゃあよろしく!」