ヒグマ
「あんたは見世物になるほうでしょっ?!」
ヒグマの唸りが鼓膜を揺らす。慌ててチョゲを抱え込んだまま丸まった。死んだフリをしても意味がないとテレビで見たけれど、今は息を殺して耐え忍ぶしかないだろう。
ヒグマの鼻息が聞こえる。こちらの臭いなんて瞬時にバレているのかもしれない。体が無条件に震え、冷や汗がでる。スイカの素っ気ない匂いが風に乗って運ばれていく―カモフラージュになってくれれば良いのだけれど。
視線がして、やがてヒグマは去っていった。
「く、るしーっ!」解放する前にチョゲが無理やり這い出る。腰が抜けて恐怖で視界がチカチカしていた。
「なんで、ヒグマが…何なの。何なのよ。どうしちゃったの?」
いつからこの村は人面犬やヒグマが出没する危険地帯になった?
「サルハチが見てないだけで、どこにでもいるよ。」
「んなわけないじゃない!早く、逃げないと。安全な場所に…」
玄関の施錠はかかったままだ。勝手口は?
ヘロヘロになった足を叱咤して勝手口へ向かう。もちろんヒグマがいないか確かめながら、である。仄かに照明が磨りガラスを照らしている。人がいる証拠だ。
ドアノブを捻り、ガチャガチャと回らないことに失望する。
「開けてっ!………どうして!?」
私の叫びが聞こえないのだろうか?それとも本当に愛想を尽かして寝てしまっているのだろうか?
どうして締め出されているの?どうして?分からない。
分からないことが多すぎる。あやふやな自己に投石を投げる、理由は何?
「逃げないと…!」
「どこに?」
そうだ。どこへ行けば身を守れる?
この村に鉄の城塞などなければ、避難所なんてヒグマに息を吹きかけられれば崩壊してしまいそうな建物しかない。「工場っ!」
光子の祖母を死に追いやった憎らしい「鉄の城塞」。あそこなら安全性が確保されるかも!
工場は村の外れにある。そこまで走って行けるかが怪しいけれど…。徒競走は苦手だ。
「やるっきゃない!」
―――
夏の虫が寂しげに鳴いている。こんな状況じゃなければ夏休みが始まったと胸踊らせ、室内から外を眺めていたかもしれない。数少ない街灯がアスファルトを照らし、私の影をブロック塀に写し取る。
ポツポツと遠くにも明かりが望めて―人だけが消失してしまったという感じだ。
確か工場は田んぼ地帯の反対側にあったはずだ。そこは所有者がたくさんいるし、企業側も考慮したのだろう。
村の敷地を買い占めいきなり立てられた不慣れな建物。謂れのない噂がよく飛び交っていた。何か得体の知れない物を研究しているとか、人が犠牲になっているとか。誰かが流した根拠のない噂話だ。
「ねえ、クマさん。いる」
先を走っていたチョゲが軽快な動きで戻ってくる。忍び足で近づき、夜闇に紛れた工場の全貌を垣間見ようと目を細めた。
「うそ…」
眼前ではヒグマが工場の入口を嗅ぎ回っている。丁度スイカ畑があった位置で、よくパラソルを広げた光子の祖母がいた場所だ。皮肉にも入口になっているのは運命のイタズラか。企業の嫌がらせか。
がくがくとすくみ上がって足が地に縫い付けられる。もう逃げられる気力がない。
「サルハチっ逃げないとっ!」
グイグイと足を齧られ痛みで我に返る。「いたっ!」
ヒグマがこちらを見た気がした。「ヒイッ」