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恋情の果てに

作者: 有瀬川辰巳

 自己犠牲の上に成り立つ幸福は、救いであり、地獄でもある。

 それは、普段より一段と寒い、凍えるような日だった。

 山河は白く染められ、動くものは一つとして見当たらない。雪が降っていなければ、世界が死んでしまったのではないかとすら思えるほど、静かで、暗い、静止した夜の事。

 私は、この山で一つの贖罪(しょくざい)に励んでいた。ゆえに、この寒さに耐えるのもその一つと、(たきぎ)や、水、数少ない食料を求め、山中を歩き回っていた。

 空気は肌を切り裂くように冷たく、吐く息は凍りつかんばかりに白いが、それすらも雪の激しさにかすんで見える。風がないのが、唯一の救いか。

 だがしかし。その激しい雪の中に、二つの人影を私は見つけた。

 その影が立つのは、下に大河を望む断崖。

 嫌な予感……いや、もはや、確信めいたものが私の胸中に飛来する。

 下手に声をかければ、悪い方向に事が動きかねない。そう考えた私は、雪に紛れて断崖のそばへと歩み寄っていく。


「……貴女(あなた)と、出会えて本当によかった」

「はい……私も、貴男(あなた)と出会えて、心からよかったと思います」

「……西方十万億土で、再び出会いましょう。そして、その時こそ……どうか、結ばれましょう」

「ええ、きっと」


 男性の声と、女性の声。会話の内容を聞けば、何をしにここまで来たのかなど、考えるまでもない。

 心中だ。

 なるほど、冬の河に飛び込めば、ほんの数分で命を落とせることだろう。


「……不思議な、ものです。黒い雪雲に覆われた空は、一つの星すら見えないというのに、貴女といるというだけで、輝いて見える」

「ええ。この激しい雪でさえ、私たちの向こうでの幸福を祝福する、花のように思えます……心ひとつで、世界は、これほどに変わって見えるのですね……」


 ……止めるべきなのだろうか。だが、私に、その権利はあるのだろうか。

 私もかつて、愛する人と心中を選んだ身。しかし、何の因果か、私は助かってしまった。

 愛する人、愛しい人……この人以外は、ありえないとすら思える人。そんな人だった。

 もしも、この男女が私と同じように結ばれてはならない事情があったとしたら、止めることは正しいことなのだろうか。

 命を救うのは、正しいことだろう。だが、その救ったことで愛する人と引き裂かれ、望まぬ婚姻を結ばされて……そのような不幸な人生を送らせることが、果たして正しいことなのだろうか。

 そのような葛藤の中、ふいに女性は泣き出した。


「貴男と出会った幸せを……数えてみました。両手の指で、足りる程度の数しかありません。けれど、そのどれもが大切で……かけがえのないもので……私は、それだけで、十分です……なのに、なぜ……涙が、止まらないのでしょう……」

「……生きたいと、思いますか?」

「……きっと、そうなのでしょうね。けれど、それでは貴男と結ばれることなど、到底かないません。それならば……共に、逝きましょう」

「……貴女が、それを望むのであれば。もとより、身分違いの恋など、許されなかったのです。それが許されるのは……向こうだけでしょう」


 その言葉には、硬い決意が込められていた。もはや、私の言葉で止められるものではない。

 そっと背を向け、私は私のすべきことへと戻ろう……それが、傷つかないで済む唯一の手段だ。

 そして、私は背後から、ぼふん、という音を聞いた。


 …………? 水に落ちた音にしては、奇妙ではないか?


 いや、冷静になれ。白に染められた世界では、動くもの一つ見当たらなかったではないか。ならば、大河とて動いていない。つまり、凍り付き、雪が積もっている。

 高さがあるが、雪が緩衝材となれば、二人とも生きているかもしれない。そう思い直した私は、慌てて断崖から下をのぞき込む。


「そこのお二人、ご無事ですか?」


 私がそう声をかけると、男性の目がぼんやりとこちらを見た。

 よかった、生きている。安堵した私は、大河へと降りる道へと歩み出す。


「立てますか?」

「……あなたは、いったい……」

「…………この山に、暮らす者です。お話の一部を、盗み聞きする形になってしまいましたこと、まずはお詫びを。あなた方を止めようとする方々とは無関係ですので、ご心配なく」


 私の言葉に、男性は安堵したように白い息を吐き、ゆっくりと起き上がる。これだけの高さから落ちて、特に負傷がないというのは幸運としか言いようがない。


「ひとまず、私の暮らす小屋まで向かいましょう。そこならば、そう簡単に見つかることはないでしょうから」

「わかりました……ご厚意、感謝いたします」


 そう言うと、男性は女性を抱きかかえた。

 そして、私たちは小屋へと向かいだす。


「私一人で暮らすことを前提としている小屋ですので、少々狭いですが……その分、火を焚けばすぐ温まります。客人をもてなすものなど一つもないですが、どうぞごゆっくり」


 消えかけていた火を大きくし、落ち着いたところで男女の服装を見る。

 女性は、いかにも高価そうな外套(がいとう)をまとっている。しかし、男性の方はぼろと言われても仕方のないような粗末な着物だ。よくもまあ、このような服装で凍死せずここまで登ってこられたものだ……。


「……私は、長くこの山を下りていないもので、世情に疎いのですが、その方は、もしや名家の?」

「はい……私がお仕えするお方です。ですが……籠の鳥のように育てられたお方でもあります。それゆえに、外を知る私の話を喜んで聞いてくださり……そうしているうちに……」

「愛して、しまわれたのですね」

「……はい。禁じられた感情に気付いてからは、お嬢様にも、旦那様にも顔向けできず、しばし悩み、暇乞いをしたのですが……お嬢様が、おっしゃられたのです。私を、好いていると」


 ……なるほど。互いの想いを知り、その想いはますます募り……そして、許されない一線を越えてしまった。ここで別たれるくらいならば、いっそ……と、いったところだろうか。


「心中、お察しいたします。私も……この山で、心中をした身です。私だけが生き残ってしまい、死の恐怖を感じ、後を追うこともできない、ふがいなき者です。この山を下りないのは、その贖罪のつもり……その程度の事で、あの方に許していただけるとは思っていませんがね」

「そうなのですか……」


 しばしの静寂。それは、一つの物音で破られた。


「……ここは?」

「お嬢様、ご安心を。この山に住まれている方のご自宅だそうです」

「このような冬山に住む? 何かの修行でも、なされているのですか?」

「そのようなものだと思っていただければ結構です。お二人ともご無事で何よりでした……私が下手に関わっても止められないだろうと、飛び降りる様を眺めているだけでしたが、こうして生きて出会えたのも、一つの仕合(しあわ)せでしょう」


 私がそう返すと、女性はふいに青ざめてあたりを見る。


「生きている……!? ならば、お父様が、わたくしたちを……!」

「その心配は不要かと思いますよ。この小屋は山奥深く。さらに、この雪とくれば、そうすぐに追手が来ることはないでしょう」

「いいえ、来ます! お父様は、わたくしを探すためなら、どのような手段でも使います……」

「随分と大切に育てられているのですね」

「いいえ……わたくしは、妾の子ですから……お父様は、わたくしの事を自らの汚点としか見ていません。それを表に漏らさないために、わたくしを隠しているだけです……」

「……なるほど、文字通り籠の鳥だったわけですか……」


 青ざめたままでうなずく女性。


「……あなたは、お父様をどう思っていますか?」

「わたくしを縛るための枷です! それ以外のなんだというのですか!?」


 それを聞いて、私は一つの決意を抱いた。


「お住まいはどちらですか?」


 私は立ち上がり、壁にかけた鉈に手を伸ばした。

 しかし、それを男性が制した。


「……お気持ちは、うれしいです。ですが、旦那様は、私にとって大恩のある方でもあります。その解決法は、どうかおやめください」

「……では、どうしますか。ここで追手が来るのを待ち、連れ戻されるのですか?」

「それは……! できません……お嬢様を連れだすために、何人かを、この手で傷つけて……」

「引くに引けないと。では……」


 私は男性の手をはらい、鉈を手に取り、二人に向けた。


「……どうしますか。私は、とうに死んだことになっているでしょうし、お二人を殺して死罪になったとしても、もはやこの世に未練などありません」


 冷酷なまでの声色。己のことながら、このような声が出せたのだなと驚きすら感じる。


「もはや、道は限られています。貴方方(あなたがた)を阻むものを排除するか、当初の予定通り共に死ぬか。貴方方は、どちらを選びますか?」


 男女は、私の目を見て動かず、何も発さない。


「……どちらも選ばないのなら、連れ戻されるだけでしょう。幸せではないでしょうし、貴男(あなた)は私刑にかけられてもおかしくはない」

「それは……そうですが……!」

「…………わたくしの家は、この山を下り、すぐに見える一番大きな屋敷です」

「お嬢様!? なぜ!?」

「……このお方は、死を受け入れた瞳です。ならば……いっそ、その決意に甘えるべきなのでは、とすら思えるのです。それに……貴男が、私刑にかけられるところを、見たくはありません……」


 その言葉に、私はそっと微笑みを返し、鉈を下ろす。


「この身は、とうの昔に死んだ身です。それをそのままにするも、()かすも、貴方(あなた)たち次第。貴女(あなた)は、私を活かしてくれるようですが、貴男(あなた)はどうされますか? 私を活かしますか? 死んだままにしておきますか? それとも……本当の意味での死を、私にもたらしますか?」


 私の言葉に、男性は声を詰まらせた。

 当然だろう。私を殺さなくては“大恩ある旦那様”が死に、かといって私をこのままにしておけば追手にいずれ見つかり、捕まり、私刑にかけられる。女性と結ばれることなど決してないだろうし、それ以前に命すら危ういのだ。


「私は……貴方にも、生きてほしい。活かすのではなく、生かしてさしあげたいのです。私は……私は……!」

「ありがとうございます。ですが、私はとうの昔に死んでいます。死人(しびと)がよみがえることはできません。黄泉平坂(よもつひらさか)への旅路の寄り道をする程度の事しか、できないのです」


 ああ、きっとこの男性は優しい良人(おっと)となることだろう。

 そして、震える声で自宅を教えた女性は、その優しさゆえの害を断ち切る良き妻となることだろう。


「……このあたりに、冬に咲く花の一輪でもあれば、貴方たちに差し上げることができたのですが、あいにくそのようなものを見た覚えはありません。ですから、代わりに言葉を」


 私と、あの方が天寿をまっとうするまで感じ続けることが許されなかった感情を、どうか感じてくれますように。


「おしあわせに」


 そう想いを込めた言葉を残し、私は小屋を後にした。




 私の後を追う人影は、一つたりとも見ることはなかった。


恋情の果てに 了

 …………読了、ありがとうございます。

 私にしては(たぶん)珍しく暗い作品を書いてみました。主人公が山を下りた後、どうなるのか……そこは、皆様の想像にお任せします。

 愛し合う二人の枷を解くために、己の命を散らした……そう思っていただくのも一つの道でしょう。ですが、そうしたとき、男女がどう思うかについても考えてみてください。その際は前書きの一文をお忘れなきように。


 また、今回は読みが同じでも漢字が違う言葉を多用してみました。『貴男・貴女・貴方』はすべて『あなた』ですが、『貴男』は男性、『貴女』は女性、『貴方』はどちらともとれる使い分けですね。

 それと、『幸せ・仕合せ』も実は微妙に意味が違うそうでして。前者は主に良縁の意味ですが、後者は良縁も悪縁も含む、偶然性に重きを置いた表記だそうです。男女に主人公が最後に言い残したのは、どちらの『しあわせ』だったのでしょうね……。


 もう12月です。皆さんは、この作品とは違い、幸せな新年を迎えられますよう、お祈り申し上げます。

 以上、有瀬川辰巳でした。

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