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追想の果て


 どこか遠くで鳥が鳴いている声が聞こえる。

 そんな呑気なことを、フィスは朦朧とした意識の中で感じていた。

 

 視界には、右腕を振り上げて、その強靭な腕と鋭い爪でフィスの首を刈ろうとする化物が映っている。思考で動いたのでは遅く、ただの反射で右腕の一撃を剣の腹で受け止める。しかし、その威力はフィスの肉体では耐え切れず、体勢を崩して膝をつく。その隙を狙っていたかのように、フィスが立ち上がるよりも前に化物は脚を振り上げた。


 首ではなく、意識を刈り取られそうになるほどの衝撃を顎に受ける。

 口の中が切れ、鉄臭い血の味が咥内に広がる。脳が揺さぶられたかのように眩暈が生じ、自身が前後不覚の状況に陥る。唯一の救いがあるとするならば、化物の算段とは裏腹に、今までとは違う咥内の鋭い痛みによりフィスの意識の覚醒が促されたことだろう。


 吐き気が生じるほどに視界が歪む。

 全身に刻まれた爪の傷と、地面に転がされた際に生じた擦過傷がズキズキと痛む。

 辺りにはフィスの血と思われる赤い染みがいくつか見え、自分が血を流しすぎたことに気付いた。意識が朦朧としていたのもそのせいだろう。しかし、フィスは生きており、まだ死んではいない。


「はは……。よく、生き延びてたな、ボク」


 咥内に溜まった血を吐き捨て、剣を杖に再び立ち上がる。

 そして、心を奮わせて、気力で地面に立つ。


 剣は前に構え、再びその敵と相対する。

 再び訪れる殺し合いの緊張感の中、フィスは全力で脳をフル回転させ、今までの戦闘を振り返り何か突破口はないか模索する。

 

 まともな攻撃に成功したのは、奇襲にも似たあの疾走の一刃のみ。深々と突き立てられた剣は、確実に化物の心臓を抉り、その生命活動を停止させたかのように思えた。

 しかし、奇襲が成功した安堵により生じた隙がいけなかった。心臓を破壊したというのに、化物は怒りの咆哮を森に向かって放ち、唖然としていたフィスの顔を拳で殴り倒した。

 

 その後は、フィスの防戦一方だ。

 爪の一撃を防ぐも、その衝撃に吹き飛ばされる。

 それを躱し、懐に潜り込んで脚に向かって剣を振るうが、刃はその厚い筋肉で止まり切断には至らない。

 心臓を破壊したというのに死なない、ならば頭はどうだと今度は首に向かって全力の一撃を狙うが、大振りになるために避けられる。

 次第にフィスの傷だけが増え、その出血から意識が掠れていった。そして、どうやらしばらくの間、身体に染みついた反射だけで戦っていたらしい。訓練で覚えたことは無駄じゃなかったと喜ぶ反面、しかしまだ足りないという事実にフィスは唇を噛み締める。


「強い……ボクじゃ、倒せない」


 死ぬ気なんてなかった。

 多少の時間稼ぎを終えたら、自分も村に向かって逃げようと考えていたのだ。しかし、最初の一刃に怒りを乗せたのが悪かった。頭を冷静に働かせて、きちんと逃げることを全体にして戦いをコントロールしているえば、ここまで追いつめられることもなかっただろう。


 自身が斬りつけた傷口から血が垂れる様子はなく、代わりに黒い霧のような気体が漏れ出ている。このことから、化物が自分の常識外にある異形な存在であることをフィスは改めて理解する。


「抵抗はするさ。諦めはしない」


 無論、まだ死ぬ気はない。諦めてもいない。

 勝つことは無理だが、逃げることはできる。

 すでに時間稼ぎとしての役割は果たしているはずだ。ならば、後は全力で逃走することを狙うのみ。

 逃げて、生き延びて、再びスノアと会うことができれば。

 彼女の笑顔を見ることができたのであれば、それがフィスにとっての勝利だ。


 震える脚に言うことを聞けと叱咤し、その一歩を踏み出す。

 背中を見せての逃走は、背後からの奇襲を受ける可能性がある。そのため、化物の視界から自身の姿を消して、奴が混乱している隙に逃げるしかない。故に、一歩を踏み出し、フィスがその剣で狙ったのは、地面に落ちていた小石だった。


 まるで正確なパターショットの如く、掬い上げるかのようにして弾かれた小石。それは、一直線に化物の顔面めがけて飛来した。すると、化物はとっさに両手を眼前で交差することで、その攻撃を防ぐ。

 フィスは、あの化物が頭部に対する攻撃に対し、やけに過敏に防ぐことを先の戦闘で知っていた。そのため、ただの投石ではあるが、化物の視界から消えるのに十分な隙となったのだ。


 計算通りだと、フィスは喜ぶ前に行動を開始する。

 この化物は視覚のみが発達しており、聴覚と嗅覚は鋭敏ではない。そのため、すぐさま森の中へと姿を隠せば逃げ切れることができるだろう。加えて、森には夜の闇が訪れ始めており、隠れるには好条件だ。


 ただ、計算違いがあるとすれば。

 それは、化物の気性が荒かったということだ。


 投石が化物の顔面へ投げられ、その視界が塞がれた瞬間に、フィスは森に向かって飛び出した。しかし、目前から迫って来るのは化物の太い腕。それが、彼女の前を遮るかのようにして振るわれ、腹部へと直撃した。内臓が千切れたか思うほどの衝撃がフィスを襲い、背中から地面へと叩きつけられる。


「がっ…! はぁっ……!」


 腹部の激痛と供に、血が食道を通って上って来る。たまらず吐血し、自身の身体を真っ赤に染め上げた。呼吸も荒くなり、先ほどの逃走が最後の力だったのか、もう身体は動かない。

 そんな状況下でも、なぜ化物は自分の逃走経路がわかったのか。

 なぜ作戦が失敗したのかを分析していた。


「まさか……暴れただけ?」

 

 頭を狙われ、視界を自ら封じた化物がとった行動。

 それは暴れるだけ。

 獲物を逃がすわけにはいかない。と、自らの気性を表すかの如く、暴れた。

 フィスの目に映る化物は、片手で視界を隠しつつ、もう片方の腕をなりふり構わず振り回していた。といっても、その動きはすべてが大振りであり、範囲も広い。時折、木々にその腕が当たれば、幹を粉砕して木片が辺りに散った。


 その一撃が。

 その、運任せの一撃がたまたま当たったのだ。

 詰まるところ、フィスは運で負けたのである。


 化物はというと、頭を狙ってこないことに気付いたのか、顔を覆い隠していた手を外し、その凶悪な双眸を再び見せる。そして、地面に倒れてぴくりとも動かないフィスを見て、ゆっくりと近づく。


 フィスの意識はまだ繋ぎ止められていた。右手に握られている剣を動かそうとするが、全身が鉛のように重く、動く気配がない。


「……ここまでか」


 フィスは最期まで抵抗の意志を示そうと、毅然とした表情で化物を睨みつける。

 しかし、相手はそんな人間の誇り高い生き方を気に掛ける心は持ち合わせていない。

 何も言わず、再びその右腕を振り上げる。


 最期まで、睨む。目は閉じない。

 心の中では、一人の少女を思う。

 大切で、大好きで、自分の生き方を教えてくれた、黒い髪の女の子。

 ここで死んで、すまない。と、フィスは心の中で呟く。

 ずっと、護れなくてすまないと。と、フィスは涙を流し謝る。

 そして、さよなら……と、フィスは別れを告げ――。



 小石が、投げられた。



 コツン、という音がした。

 それは投げられた小石が、放物線を描いて化物の背中に当たった音であり、化物に効いている様子はなかった。しかし、後ろから当てられた石の存在を不審がり、化物は振り上げた右腕はそのままで後ろを振り向く。


 フィスもまた、その方向に視線を向ける。

 そして、目を見開いて、か細い声を出す。


「そ、そんな……なんで……」


 そこには、肩を大きく震わせた少女がいた。

 必死に走ってきたのか、木々の小枝で修道女が所々破れ、頭部に被るヴェールも脱げている。それにより、ヴェールの中に隠されていた髪が、すでに暗い森の中をさらに黒く染めるかのような黒髪が露わになっていた。風が吹き、腰まで届くほどの長い黒髪が靡く。大人しく幼い顔立ちの中、その双眸には明らかに恐怖が宿っていた。涙を貯め、奥歯がガチガチと震え、呼吸が荒くなる。


 スノアは、恐怖に震えていた。

 少しでも気が抜けたらその場に崩れ落ちてしまいそうなほどに、気を張っていた。

 なぜなら、ここで自分が勇気を振り絞らないと。

 大切な友人が死んでしまうから。


「こっち! こっちだよ! 化物!」


 スノアは声を張り上げて、化物の注意を引く。

 そして小石を拾い、化物に対して投げる。

 

 感情のまま逃げ出したい気持ちを抑え、スノアは化物をフィスから引き離すことを考えた。しかし、得策があるわけではなく、単純に化物を挑発するという単純な愚策。

 始めは興味深そうにスノアを観察している様子の化物であったが、すぐに視線を眼下の獲物へと戻す。投げられる小石を警戒する必要もなく、あの少女自体が向かってくる気配も見せない。ならば、まずはこの死にかけの獲物の息の根を止めて、次は――。


 キィン。


 と、今までとは違う音が森の中に響く。

 何が起こったのか、フィスは見ていた。


 がむしゃらに投げていた小石のひとつが、たまたま化物の頭部の一角に直撃したのだ。分厚い筋肉とは違い、角は硬質であり、金属同士がぶつかったかのような高い音が響く。それにより、角が細かく振動し、そして――。


「るおおおっ!? るがあああああおあおおおっ!?」


 化物が頭を押さえて異常に苦しみ始めたのだ。

 眼下にいたフィスのことなど忘れて、その場から二、三歩、後退した場所で悲痛な声を挙げながら苦しんでいた。それはまるで、頭の中を何者かに搔き混ぜられているかのような様子で、見ていたスノアも気の毒と感じてしまうほどだ。


「っと、そんなこと思ってる場合じゃないね」


 化物が退いた好機を狙い、フィスの傍に駆け寄ろうとする。

 遠くから見ただけでもフィスの怪我は重傷だとわかり、一刻も早く適切な治療を施さないと命に関わるかもしれない。いや、それ以前に……早く親友の元に駆けつけ、抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。


 しかし、それを良しとしない存在がいる。

 苦しんでいた様子だというのに、その化物の視線はまっすぐスノアを射貫いていた。

 自分に苦痛を与えた憎き相手を、しっかりと理解している。


「うるがあああああああっ!!」


 大気を震わす化物の咆哮に驚き、スノアの足が止まる。

 そして、化物がこちらに向かって歩いていることに気付いた。

 同時に、フィスが血を吐きつつ叫ぶ。


「逃げろ! スノア! こいつは、君を標的に――」

「うん!」


 フィスの言葉を最後まで聞く前に、スノアは化物に背を向けて駆けだす。

 愚策ではあったが、幸運により見事化物の気を引くことに成功した。そして、これが当初の作戦の通りであり、スノアが唯一この場面で唯一できることだ。


 ただ、逃げる。ただただ、逃走する。

 フィスからの注意を反らし、フィスを助ける。

 それが、スノアのやりたいことであり、今しなけれなばならないこと。

 だから、彼女は頑張れる。


 フィスのスノアを慮る叫び声が後方から聞こえる。

 しかし、振り向けば歩みを止めてしまいそうな気がしたため、むしろ前へと進むスピードを上げる。そして、化物は地面を揺らしながら、スノアの細首を刈るために追走を始めた。


 少女は涙目になりながら、夕闇の森を駆けていた。

 友を助け、そして自身が死なないために。

 死にたくない一心で、森を駆け……そして、九死に一生を得て、幸運にも生き残ったのだった。





「……これが、私が経験したすべてです」


 舞台は再び、謎の医師との面会に戻る。

 不健康で、不潔で、不審な医師はというと、スノアからの話をカルテにまとめつつ「ふむ…」と思案に耽ている。しばらく、医師からの反応を待つが、ただただカルテにペンを走らせているだけで、何も言おうとしない。ついには、スノアは痺れを切らせて話しかけることにした。


「あの……治療ありがとうございます。それで、この怪我は――」

「全身の擦過傷は大したことは無い。ひどいのは、背中と脚の傷だ。しばらくは自由に動けないだろうが、安静にしていれば治る。まあ、少し傷痕は遺るだろうがな」


 スノアが訊かんとしていたことを先回りして医師は語る。スノアは、いきなり多くの情報を与えられたために面食らうが、とにかく脚が動かなくなるほどの重傷ではなかったことに安堵する。しかし、同時に傷痕が遺ることを悲しく感じるが、生き残っただけ幸運だと思うべきだと切り替えた。


「それで、その……ここはどこで、あなたは誰で……私はなぜここにいるのでしょう?」


 訊きたいことは多くある。

 そして、それを知るには目の前の医師に頼るしかないのだ。先ほどのように、一気に回答されると思いスノアは身構えるが、彼から帰ってきたのは意外な言葉だった。


「うるさいっ! 俺様は忙しいんだ!」


 言葉というよりも、怒号に近い。

 カルテを挟んでいたバインダーを床に叩きつけ、手に持っていたペンをスノアに向かって投げつける。大人の男性が怒り狂う様子はアッドで慣れてはいたものの、その急激な怒り方には流石に恐怖を覚える。


「大体なんだこのクソ忙しいときに、お前といいあいつといい……俺様を便利屋みたいにつかいやがって。大体、俺様は医者じゃないって何度言えばわかるんだ……」


 スノアは謝るべきなのか、と逡巡していたら、男は再びカルテに向かってぶつぶつと独り言を呟き始めた。とにかく、この男は危ない人だと判断し、話しかけられるタイミングが来るまで大人しくしていようと判断する。


 しかし、その判断も束の間、二人がいた殺風景な部屋に誰かが入ってきた。


 スノアから見た第一印象は、白い人だった。

 髪も、肌も、纏っているマントも、何もかもが白い男の人だった。

 年齢は恐らく三十代後半といったところだろうか。線は細く、不健康な瘦せ方をしているのが、そのこけた頬からも察せられる。白い髪は後頭部で結ばれており、前髪をだらしなく垂らしている。高身長だが背は曲がっておらず、一本の芯が通っているかのような佇まいから落ち着きを感じる。


 その男は、ぶつぶつと呟いている医師を一瞥すると、スノアへと視線を向けた。長い前髪の隙間から、ぎょろりと大きい瞳が見え、スノアはその眼光に委縮する。

 一体、この男は何者なんだ……このやばい医師の仲間なのかとスノアは警戒する。白い男はというと、そんなことは関係ないといった様子で、スノアに近づいていく。


 そして、彼女の眼前に立つと、じっと彼女を見下ろしていた。

 上から降って来る視線に我慢できず、スノアは話しかける。


「あ、あの……」

「怪我は大丈夫なのか?」

「え? あ、その……まだ痛みはありますけど、あの方の話によれば、とくに問題はないということらしいです」

「そうか、安心した」


 白い男の言葉とは裏腹に、その声に全く感情は籠っていない。

 まるで、そう言うことをプログラミングされていたロボットのような無機質な声だ。そこから、男の意思や思想を汲み取ることができず、そしてその相貌も相まって、不気味だと感じてしまう。


 そんなスノアの印象など露知らず、白い男は空いている椅子に腰を掛けて言った。


「さて、訊きたいことがいくつかあるのだろう。すまんが、そこにいる男は少々変わり者でね。自分が代弁しよう。まあ、答えられる範囲内にはなるがな」

「え? あ、ありがとう、ございます」


 やはり言葉に感情が見られないが、社交的な態度と言葉に呆気に取られる。

 ついつい、こちらも佇まいを直し、白い男に向き直る。


「自己紹介がまだだったな。自分の名前はレイン。レイン・ドローシュだ」

「わ、私は……スノアといいます。スノア・リルベインです」


 レインと名乗った白い男と握手を交わし、その物腰の柔らかさから、スノアは信頼しても良いだろうと警戒を解く。そして、ここはどこなのか、自分たちは誰なのか、それをレインは静かに語り始めたのだった。


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