追想
名前はスノア・リルベイン。
年齢は十六歳。性別は女性。出身はボリドア村。
この地域には珍しい黒髪であり、彼女はそれを腰に届く長さまで伸ばしていた。しかし、現在はとある理由で背中の中腹で乱雑に切られている。大人しそうな人柄を思わせる二重瞼のタレ目に、やや太い眉毛。外での仕事が多いためか肌はほんのりと日に焼けている。同年代に比べて胸部がやや豊かだ。
「それ、最後の必要ですか?」
自分のプロフィールを読み上げる目の前の男性に対し、スノアは言う。大人しそうな瞳が薄くなり、唇を突き出して、不満であることを言葉だけでなく表情でも目の前の男性に伝えていた。
男性は白衣に身を包み、首に聴診器を提げていることから医者であることがわかる。しかし、髭は口元を隠すほどに長く、白衣は袖が捲られ清潔感が感じられない。眼鏡の奥の細い瞳は、今にも眠ってしまいそうであり、少なくとも患者に見せる顔ではない。
医者の男は、ちらりとスノアの表情を見るが、すぐに手元のカルテに目線を戻した。どうやら、彼女の意志など毛ほどの興味もないらしい。ぶっきらぼうに、面倒臭そうに男は言った。
「実験体のデータは正しくなければならない」
その言葉の意味に、スノアは息を呑む。
この医師は何を言っているんだ。
私が……実験体? そもそも、ここはどこだ?
私はどうして……なぜこんなことになっている?
医師が読み上げるカルテの内容に耳を傾けつつ、スノアはここに至るまでの過程を思い出す。あの化物と対峙し、追われ、そして瀕死の重傷を負うものの、なんとか生き残ったことを思い出す。そして……それ以前の、平穏な村の暮らしを……スノアは思い返していた。
ボリドア村は、王都より離れた田舎村である。
村民たちはまだ日が上り切らない早朝に目を覚まし、村の収入源である新鮮な野菜たちの世話を始める。世話という言葉を使うと、まるで農作物たちに意思があるように聞こえるが、村民たちは口を揃えて世話という。何でも、自分たちが育てた野菜たちは自分たちの息子も同然であり、故に世話をするのだ。つまり、彼らがつくった野菜たちは、村民たちの愛情が注がれたものになるだろう。それが、まずいわけがない。
スノアは農業者ではないが、彼らと同時刻に目を覚ます。
村の広場にある小さな教会の二階……いや、屋根裏の物置部屋が彼女の自室だ。小さな天窓から微かな光が差し込み、スノアは朝が来たことを知る。木でつくられた簡素なベッドから立ち上がり、ぐっと身体を伸ばす。その後、簡素な麻の寝巻から黒い修道服へと着替える。それは、決して綺麗な衣服ではなく、何年も着ていることがわかるほどに修繕の跡が見える。白いフリルがあしらわれたヴェールが彼女なりの贅沢であり、それにより彼女の特徴的な黒髪を覆い隠す。
修道服を身に纏い教会に住んではいるが、彼女は別に修道女ではない。ただとある理由で修道服が好ましいために着用しているのだ。
「よし……準備完了」
スノアは身だしなみを部屋の姿見で確認し、床に開けられている穴からラダーを降りて階下へと向かう。そこは教会の住居スペース……正しくは神父の自室前の廊下だ。奥の台所からは料理をする神父の鼻歌が聞こえ、空腹を誘う朝食の良い匂いが鼻孔をくすぐる。すぐに台所へ突撃し、美味しい朝食にありつきたいが、その前にスノアの朝の日課を済まさなくてはならない。
住居スペースから礼拝堂へと出る。
小さな教会ながら立派なステンドガラスが室内を照らし、朝の静寂さが教会の神聖さを際立たせていた。長椅子の間の通路を通り、スノアは教会の重たい扉を開けて外へと出る。まだ薄暗い朝の広場には人の姿は見えない。ほとんどの村民たちが起きているのだが、男たちは畑へ、女たちは朝食を調理しているため広場に出ないのだ。
彼女は広場の石畳を歩きつつ、教会の裏手へと向かう。
森に面したその場所には、彼女が世話をする花壇が並んでいた。赤や青といった多くの花々が、朝日の光を受け止め、ぐっと体を伸ばすかのようにして花弁を上に向けていた。その元気な様子にスノアは頷きつつ、目的の花壇へと向かう。
そこには、イヴの花、別名【清浄花】と呼ばれる花々が咲いていた。細く、今にも折れそうな細い茎の頭には、大きな白い花弁が重たそうに頭を垂れている。その花弁は幾重に重なりあうようにしてまるでグラスのような形状を成しており、彼女はその花の前に教会から持ってきた小瓶を差し出す。
「さあ、今日もお願いね」
農業者たちが野菜たちを自分たちの息子のように世話をするのであれば、スノアにとってはこのイヴの花が自分の娘たちだった。彼女たちの頭を優しく撫でるようにして花弁を指先で触れると、それに反応して花の蜜が内部より溢れ出てきた。その蜜は透き通った液体であり、スノアはそれを小瓶で慎重に受け止める。その雫が小瓶内に垂れ落ちたことを確認すると、安堵して息を吐く。
「……まずは、一本目」
「やあ、やってるな」
背後から突如かけられた声に、スノアは「ひゃいっ!?」と驚きの声を挙げる。その際に小瓶を落としそうになるが、背後にいた声の主が素早く手を伸ばしてそれを受け止めていた。
「おっと、危ないな。貴重なんだろう? イヴの花から採取できる【聖水】は」
背後から現れた人物に、スノアは向き直る。
そこにいた彼……いや、彼女は目が合ったスノアに対し、眩しい笑みを浮かべた。なぜ驚いたかを知らないと言わんばかりの彼女の表情に、スノアはムッとして少し棘のある言葉を放ってしまう。
「私が驚いたのは、いきなり後ろから話しかけてきた誰かさんのせいなんだよ?」
「あれ? ああ……すまない。そういうことだったか」
空いた手で頭の後ろを掻いて力なく微笑みつつ、フィスはスノアに傍に歩み寄る。慣れた手つきで彼女の手を取ると、まるで指輪を嵌めるかのように大切に小瓶をスノアに手に返した。
「ひとまずこれは返す。大事な物に違いはないだろう?」
フィスはそう言って、また微笑む。
初対面の女性であればその美男子の笑みに胸を撃ち抜かれるかもしれないが、長年供に育ってきた幼馴染には通用しない
そもそも、フィスは女性だ。しかし、長身で身体も細く、さらには女性らしさを感じさせるバストも絶壁に等しいがために、美形の男にしか見えない。そのボーイッシュな甘いマスクとベリーショートの金髪が、さらに男らしさを確立させている。服装も、ボディラインがはっきり見えないような大きめのシャツと、明らかに男性用のパンツを着用している確信犯だ。
女であるが容姿は美男子、フィス・オーディナル。
ボリドア村の防人長の一人娘であり、スノアの幼馴染だ。
「今日は珍しいね。こんな朝早く起きるだなんて」
スノアは、二本目のイヴの花から蜜を採取しつつ、背後でその様子を観察していたフィスに話しかける。会話をしつつも、意識は手元に集中しているため彼女が失敗することはない。それを知っているためか、フィスもまた気兼ねなく会話に乗る。
「まあ、ボクにだってそういう日はある。それに最近ゆっくりスノアと話せてなかったし」
「あはは、フィス。それだと、まるで私に会いたいから早起きしたように聞こえるよー」
「え!? あ、ああっと……そうだな。あ、あはは、はは……」
「ま、でも、私もちょっと寂しかったし、嬉しいよ?」
ありがとね、フィス。お疲れ様。
スノアはそう言って、フィスに明るい笑みを返した。
多くの女性に甘い笑みを振り撒き赤面させるフィスであるが、スノアのその笑みに対しては自身が顔を赤く染めることとなった。しかし、スノア本人はそのことに全く気が付いてはいないのだった。
「そ、そういえば! この花壇の世話して何年になるんだっけ!?」
幼馴染の可愛らしい笑顔に照れていることを必死に隠すため、フィスは強引に話の流れを変える。スノアは、その質問に対し「えーっと……」と指を折って数えていた。そんな折でも、聖水収集の手を止めることはない。
「今年で、ちょうど十年目だね。聖水なんて誰も使う人なんていないのに、つい日課になっちゃった」
「たしか、聖水には魔を退ける力があると聞くが……。そもそも……魔とは?」
「私も神父様に訊いたことはあるんだけど、何だか上手くはぐらかされちゃった。でも多分、善くないものなんじゃないかな? 退ける! ってことは、少なくとも善いものじゃないでしょ?」
フィスは「そうだな」と頷く。
そして、スノアの身振り手振りを織り交ぜた話し方を見て、可笑しそうに微笑むのだった。それに気づいた、スノアは「もう、何なのー? 何がおかしいのー?」と詰め寄るが、フィスは「内緒」と悪戯めいた笑みを返すだけだ。
そんな取り留めもない話をしていると、時間はあっという間に過ぎていく。
山の峰に隠れていた朝日は、すでにその姿を見せていた。気づけば、畑に行っていた男たちが村に戻り始め、広場は朝の賑やかな雰囲気に溢れている。
スノアの手に内にある小瓶には、イヴの花たちから回収した聖水の雫たちが満たされている。彼女はそれを確かめると、修道服のポケットに入れた。
「さて、後はほかの花たちにも水をあげなきゃ。フィス、手伝ってくれる?」
「ああ。喜んで」
教会の裏には、花たちを世話する道具が無造作に置かれている。そこには、鋏や桶、そして腐葉土や肥料などが入った袋も積まれている。二人はそこからじょうろを手に持つと、近くの井戸から水を汲み上げて中を満たす。そして、少しずつ、優しく水を花たちへと注いでいく。
いつもはスノアが一人でやる作業だが、今日はフィスが手伝ったおかげで早く終わった。朝の日課が終わった満足感にスノアが息を吐くと、隣に立っていたフィスが「あ、あのさ」と話しかけてきた。
「スノア。ちょっと提案があるんだけど」
「うん? どうしたの?」
「実は、今日はボク、防人の仕事がなくて……一日暇でね。それで、良かったらなんだけど、一緒にピクニックなんてどうだい?」
フィスの心臓が、ドクンドクンと異様に拍動するのが彼女自身にもわかっていた。やけに近くに聞こえる心臓の音をうるさいと思いつつ、スノアの返事を緊張して待っていた。
対するスノアといえば、そんなフィスの心情など露知らず、全身で喜びを表していた。
「わあ! 行く行く! 絶対行くよ! フィスとお出かけなんて、本当に久しぶりだもん! あっ! じゃあ、私がお弁当つくるよ。フィスが喜ぶような美味しいのつくるから、楽しみにしててね!」
スノアの返事に、フィスは胸を撫で下ろす。彼女の予定を把握していなかったために、もし断られたらどうしようかと思っていたのだ。しかし、そのような心配も杞憂に終わり、フィスは安堵した。ぴょんぴょんと跳ねそうなほどに喜んでいる幼馴染の頭を撫でて、「ありがとう」と微笑む。
「ん? 何がありがとうなの?」
「えっ? ああっと……お弁当のこと?」
「まだ作ってもないのに、早いよー」
「ああ、そうだな。でも、楽しみにしてる」
二人は昼前に広場に集まる約束をし、フィスは自分の家へと帰って行った。心なしか、その足取りが跳ねていることにスノアは気づくが、「フィスもたまによくわからないことするなあ」と軽く済ませるのだった。
スノアも朝食を頂こうと教会の中へと戻ろうとしたとき、台所の窓からにやついた顔でこちらを見ている神父の姿を発見した。
彼の名前をアッド・リルベインといい、スノアの育ての親である。ただし、実の父親というわけではなく、教会の前に捨てられていたスノアを養父として引き取ったのがアッドなのだ。
まるで雑草のように落ち着きがなく跳ねている金髪に、顔が縦に長いのが特徴的だ。無精ひげが目立つが、それがこの男にはやけに似合っているのだから剃れとも言えない。服装こそ司祭の祭服を着用しているが、ただの農民が祭服を着ただけですと言われても信じてしまうほどに、中身と服装にギャップを感じてしまう。
アッドがこちらを見てにやついていることに気付いたスノアは、目を細める。彼女は、大抵、あの男がにやついているときは、彼にとって面白いこと、すなわちスノアにとっては面白くないことが起こる法則を知っているのだ。そのため、第一声は朝の挨拶ではなく、実に冷淡なものになる。
「何か用?」
そのスノアの反応がまた面白いのか、口角がさらに吊り上がり、目元がアーチになるほどににやつく。朝から嫌だなあと、スノアが思っていると、やっと神父が口を開いた。
「いや、なんだ。朝からこの二人はイチャイチャしてんなーと思ってよ。んでもって、へたれながらも頑張るフィスが……その、なんだ……見てて面白い」
「よくわからないけど……人の頑張る姿を見て面白いって……感じ悪い……」
いつもそうだ。この人のいうことはよくわからない。
と、スノアは溜息が漏れる。
アッドは自分の育ての親であり、孤児である自分をここまで育ててくれたことには感謝している。しかし、スノアはその男の暴挙を許せるほどに崇拝しているわけではない。むしろ、身内だからこそ、厳しく言うことの方が多いのだ。
「そうだ。聞いてたらわかるかもしれないけど、昼前から私いなくなるからね」
「はいはい。イチャイチャデートして来いよ。……ところで、お前ってフィスのことどう思ってる?」
「どう思ってるって……そりゃあ、大切な幼馴染で親友だよ」
「それ以上の感情は?」
「それ以上……? どゆこと?」
「ああ……なんだ。その……うちの宗教、別に恋愛禁止してないから。好きになった奴と、好きな風にお付き合いして構いませんから。例え相手が、異性であろうと、同性であろうと何も言いませんから」
アッドはそう言って、やれやれと肩を竦める。その彼の「お前はわかってないな」と言わんばかりの態度にスノアはむっとするが、朝からこの男に苛立っても仕方ないと矛を収めた。
「まあ、立ち話もなんだから、さっさと入ってこい。朝飯にするぞ」
「うん。今行くよ」
アッドの趣味であり特技の料理が待っていることを思うと、スノアもまたフィスのように嬉しそうに跳ねるのだった。それを窓から眺めてたアッドは、まだまだ子供だなと呆れつつも優しい笑みを見せた。