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逃走

拙いところもあるかと思いますが、応援のほどよろしくお願いします。


「はあっ! はあっ! んぐっ! はぁっ!」


 少女は涙目になりながら、夕闇の森を駆けていた。

 地面を隆起させるほどの巨木の根を跳び越え、生い茂る深緑の苔に滑りそうになりながらも、必死に少女は走っていた。時折、後方を振り返りあの化物が追ってきていないか確かめる。見るたびに足元への注意が疎かになるために危険なのだが、それよりも化物の方が気になって仕方ない。


「ひぃっ! ふぅっ! はぅっ!」


 少女の人生において、こんなにも必死に走ったことはない。足を止めれば殺されるという恐怖が少女を走らせる原動力である。しかし、その恐怖は彼女の体力を必要以上に削り取ってもいた。心臓の音が妙に近くに聞こえ、呼吸のリズムは一定に整えられない。次第に足は重くなり、視界の縁が白くぼやけて来る。かれこれ十分以上走っているが、彼女の体力はすでに限界だった。


 しかし、不思議と意識は明瞭だ。

 彼女の頭はただひとつの意志で統一されていたからだ。


「死にたくない! 死にたくないよ!」


 死にたくない。

 生きたい。


 生物として至極当然の欲求が、彼女の足を動かしていた。

 体力の限界を超え、気力を振り絞り、身体を騙して生のために駆けていた。


 しかし、無情である。

 すでに後ろを振り向くことすらせず、ただ前を向いて走っていた少女であったが、その先に道がないことに気付いた。正しく言えば、地面が途切れていたのだ。少女が一生懸命走っていた先は崖であり、彼女は知らず知らずの内に自ら行き止まりに向かって駆けていたのである。


 少女は一度歩みを止め、走る方向を変えることを考える。

 しかし、その一瞬の思考と、判断が、鬼ごっこの終わりを告げた。

 方向転換のために大きく減速したのは、捕食者にとって恰好の隙だったのである。


 肉が爪で切り裂かれる感覚を知った。

 皮膚が削り取られ、血管が破れ、剥き出しになった神経を逆撫でる。

 血飛沫が苔の茂った地面へと飛び散り、緑色のキャンパスに赤い雫が垂れ落ちたようにも見えた。


「あっ! くぅっ!? うっ!?」


 突如背中に感じた知らない感覚に、激痛に、少女は叫ぶことすらできない。そして、その一撃の衝撃によって地面に転がってしまった。再び逃走を開始しようと少女は起き上がろうとするも、裂けた背中の傷の痛みと身体の限界がそれを良しとしない。


 メキメキと、何かが砕け割れる音が耳に届く。

 それは少女を追っていたそれ(・・)が、足元の根を自らの体重によって踏み折った音だった。少女の胴体ほどの太さの根を、いとも容易く踏み砕くその体重と膂力に少女は戦慄する。そして、意識したくなかったそれ(・・)の存在を、嫌でも意識してしまった。


 こんな生物を、少女は見たことがない。

 二メートルは優に超える巨体に浅黒い肌。見た目は人間のようであるが、全身が筋肉の塊といえるほどに屈強な身体であり、毛は見当たらない。人間でいう犬歯が以上に発達し、鋭い牙へと姿を変えている。そして、それは両手の爪も同様であり、それぞれが刃物のように鋭く伸びている。

 そして、最も特徴的なのが、額から生えている一本の白い角だ。

 それは三十センチほどの長さであり、まるで異様に発達した骨が内から突き出てきたようにも見えた。


 少女を追っていた化物は、低い唸り声を挙げつつまた一歩踏み出す。

 シャリシャリと、少女に自身の武器を自慢するかのように両手の爪を擦り合わせていた。少女の背中を裂いた爪の一撃で、今度こそ確実に殺すつもりなのだろう。その様子が、状況が、少女の脳内にも容易に想像できた。


「……嫌だ…来ないで……来ないでよ…」


 彼女を突き動かしていた恐怖が、明確な殺意となって近づいて来ている。頭が逃げろと命令を出し、本能が生きろと叫ぶが、少女の限界を超えた身体は動こうとしない。地面を蹴ろうとするが、両足が小刻みに痙攣を起こしており、手で這って動こうとするが背中の激痛がそれを良しとしない。


 怖かった。

 恐ろしかった。。

 気づけば叫び、熱い涙を零していた。


「なん、なの! あなたは、一体、なんだっていうの!?」


 それは恐怖故か。それとも、意味もなく殺されることに対する悔しさか。

 今すぐにでも命を散らすかもしれない極限状況下において、少女が自分の精神状態を正常に判断することはできない。それでも、死にたくはないという思いだけは、確かにある。

 身体が動かない少女の必死の抵抗は、ただ叫ぶことだった。


 しかし、その化物に声は少女の声は届かない。いや、聞こえてはいるだろうが、それを言語として理解することはない。少女が本能で逃げていたように、化物もまた本能で少女を殺すのみだ。故に、彼女が泣き叫ぼうがそこに慈悲が生まれることはない。そして、躊躇もない。


 少女は地面の苔を千切っては化物に向かって投げた。しかし、軽く、小さい苔たちは空中をひらひらと舞うだけで化物に届くことは無い。石を見つけて、投げる。しかし、化物の厚い皮膚には意味がない。木の枝を拾って、投げる。化物は軽く手で薙ぎ払った。


 投げる。意味がない。投げる。意味がない。投げる。意味がない。

 意味がない。

 この化物に何をしても意味がない。

 全くの無意味。


 だから、ここで少女は殺される。


 化物はすでに少女の目前まで近づいて来ていた。すでに少女が動けないとわかったからか、その動きは緩慢であり余裕に溢れていた。左手の爪を振り上げて、眼下の少女へと振り下ろす。しかし、目標は頭や首や胸ではなく、痙攣している足だった。


 ぐちゅり。

 そんな音と感覚が、少女には聞こえた。

 化物は爪をまるで槍のように一点に集め、少女の右脛を貫き刺したのである。


「あっ……!? あ、ああ、ああああああああああああああああ!!」


 吹き出る血と供に、背中以上の激痛が少女を襲う。

 化物の爪が僅かに動くだけで、肉が掻き混ぜられ、血管が破け、骨を直に触れられる。


「痛い、痛いよぉ! 痛い、痛い、痛い、痛いのぉ!」


 少女は右足を動かして逃げようともがく。しかし、その度に突き刺さった爪が傷口を広げていく。すでに正視に堪えないほどの傷口は広がり、それと同時に出血の量も増えていく。

 多量の出血により朦朧とする意識の中、少女は物を投げることを止めなかった。苔を、小石を、枝を、化物に対して投げていた。泣きながら、痛いと叫びながらも、抵抗を続けた。


 化物が少女の右脛に爪を突き刺したのは、彼女の動きを封じて確実に殺すためだ。

 故に、後は右手の爪で好きな部位を刈り取るのみ。

 大きく右手を開き、そして頭上へと振りかぶる。


 その化物の動きを見て、少女は本能的に終わりを知った。

 急に右脛の痛みも無くなり、意識がクリアになる。そして、今までのことが、これまでのことが、脳裏に浮かび上がる。シャボン玉のように、浮かんでは弾けて消えて、まるで一瞬が長く引き伸ばされたような感覚に襲われる。


 そこで、ひとつのシャボン玉が弾けた。


 そして少女は思い出した。

 自分のポケットにある、小瓶のことを。

 無我夢中に走っていたためか、その存在を完全に忘却していた。


 最後の抵抗。

 少女は、それが無意味と知りつつも、嘲笑しつつも、ポケットへと手を伸ばした。

 

 化物の右手がついに振り落とされた。

 それと同時に、少女はポケットから小瓶を取り出す。

 

 交差する少女と化物の視線。

 ぶつかり合う、少女の最後の抵抗(こびん)と化物の死の爪。


 化物の爪により割れた小瓶の中身は、そのまま慣性に従って化物の右手へと付着する。小瓶の中にあったのは、透明な液体だった。無味無臭の、何ら変哲もない水のような液体。しかし、それはただの水ではない。

 

 少女の最後の抵抗は、無意味ではなかったのだ。


「グ、グオオオオオオオオオオ!!」


 咆哮。絶叫。

 その化物の声には、痛みと怒りが孕んでいた。

 化物は左手の爪を咄嗟に少女の右脛から引き抜き、慌てるようにして二、三歩後退する。液体が付着した右手を抑えるようにして、狼狽えているようにも見える。


 何が起こったかわからない少女は、上体を起こして化物の様子を見ていた。

 すでに意識は途切れる寸前であったが、目の前の光景には驚いた。


 液体が付着した化物の右手が、まるで肉体が液化したかのように溶けていたのだ。

 白い霧のような煙をその傷口から発生させつつ、どろどろと溶けて肉片が苔の大地へと落ちていく。しかし、肉片は大地へと到達する前に、白い霧となって消えてしまった。そして溶けた傷口は、みるみると広がっていく。右手はすでに無くなり、右肘まで到達し、そしてついには右肩まで――。


「ガアアアアアアアアアアア!!」


 化物にも恐怖はあったのか。

 溶けて無くなる身体に半狂乱し、そして自らの身体を消した少女を鋭く睨みつける。すでに右手はないが、まだ左手は健在だ。身を屈め、その屈強な足に力を込め、左手の爪による一撃で少女を葬りさろうとする。そして、大地を蹴り――。


 化物は倒れた。

 その傷口は、すでに化物の右半身を侵食し、右脇腹、右脚が消えつつあった。足が無ければ立つこともできず、故にバランスを崩して地面に伏すことになったのだ。消える身体を護ろうと必死に身をよがるが、その浸食が止まることはない。傷口は、白い霧を発生させながら、化物の身体を尋常ではない速度で消し去っていく。ついには左半身へと及び……そして、胸部、左肩、左腕、左手……最後に頭部が残った。


「ウオゥッ! ウガアアゥッ! ガアッ!」


 すでに胸部がないというのに、化物は生きていた。

 生命を突き動かす心臓がないというのに、化物はまだ生きていた。

 傷口は首を侵食し始め、化物はまるで許しを乞うようにして声を挙げる。


 しかし、少女はただその光景を、現実離れした光景を見ているだけだ。

 何も言わず、何も思わず、ただその化物の最期を見届けるだけ。

 そもそも、少女にも、その侵食を止めることはできないのだ。

 加えて、化物を救うことは意味がない。


「ガ、ガアアアアアア――」


 鼓膜が破れそうな断末魔を残し、化物はついに消えた。

 文字通り、肉体がすべて消失した。それは、この世から存在自体が消え去ったといってもいいだろう。

 少女の最後の抵抗が、化物の最期を導いた結果となったのだ。


「……まさか、ね」


 少女は自嘲的に笑う。

 まさか。本当に、まさかだった。

 まさか、自分がつくっていたこの液体が、こんなにも効果を発揮するとは思わなかったのだ。

 少女のポケットに入っていた小瓶。そして、小瓶の中に入っていた液体。


 その名前は【聖水】。


 魔を討ち払い、魔を退け、魔を拒絶する聖なる雫。

 それが、化物を消失させた。

 その結果は、事実は、少女の運命を大きく変えることになる。


 しかし、今の少女はそれを知らない。


 目前の恐怖が消え去ったことで、緊張の糸が切れて少女は意識を失った。

 沈んでいく意識の中で、誰かが近くにいた気がした。

 白い衣服に身を包んだ、誰かが――。


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