教科書と雑居ビル
冬将軍のように苛烈な敵が迫る、城の敷地内。甲冑の擦れる音、焦げ臭い匂い、武具等の点検をする足軽達の引き締まった顔………それら全てがこれから行われる死闘を物語っていた。額にほくろがある小さな少年は、城内のヒリヒリとした冷たく張り詰めた空気を肌に感じ、氷柱を押し当てられたようにぶるっと身を震わせた。それでも。彼は怯える自分を戒めるように首を振り、石の入った籠をきゅっと握りしめて父親を見上げた。
「おとうさん! ぼくもたたかう!」
「お前は逃げろと言っただろう! 母上や妹達を守れと! ああもう、どうしたら……」
人々が忙しなく行き交う中。甲冑を纏った父親は少年の両肩を掴み、泣きそうな顔で俯いた。……この子を無事に安全な場所に送り届けたい。だが、今、これ以上持ち場を離れるわけにはいかない。かと言ってこれから激戦が始まるこの城に置けば、もっと危ないし、皆に迷惑をかけてしまう……そう思い悩む彼の近くに精悍な男が通りかかった。
「どう見ても元服前だな」
「も、申し訳ございません! 私事で持ち場を離れてしまって!」
少年は父親に頭を下へ押さえつけられながら、上目使いでその男をチラリと見た。……かおはよくみえないけど、かっちゅうもかっこいいし、つよそうだな……と、その男の威厳のある佇まいからなんとなく感じた少年は。顔を上げよと言われた途端、少し興奮気味にしゃべりだした。
「おじさんは、ちちうえのとのですか? いつもちちうえがおせわになっております! ほくは石をなげるのがとくいなんです! きっとやくにたてます!」
「このお方はお前が気軽に話しかけてはいけない偉い方なんだ! ……も、申し訳ありません!」
「いやいや、しっかりした子だ。私の子は小さい頃、栗の棘が刺さっただけで泣いていた」
父親が裏返った声で驚くのを聞いて、小さい頃はそんなものだ、と静かにほほ笑むと。との、と言われた男は、少し屈んで少年に語りかけた。
「私はお前の父の殿ではない。私とお前の父の殿は大友義鎮様だ。……拾った石を見せてくれるか」
「はい!」
少年は小さな籠を高々と掲げる。その籠の中の石を一つ掴んだ男は、感心したように少年を見つめた。
「これはいい石を選んだな。使わせてくれ」
「もちろんです!」
得意げに明るく笑う少年。男はそんな少年の目を見て、諭すように言った。
「お前は武器を見つけるという役目を立派に果たした。次にお前の成すべきことは、お前の母上や妹達を守ることだ」
「ははうえたちにはあにうえたちがついてます! だからここへきたんです!」
「人数が多い方が、より守りやすいだろう。それにこの城にはまだ童のお前より強い兵が沢山いる。だからここよりもお前の母上や妹達の方へ行くべきだ」
辺りをキョロキョロと見回し、たしかにそうかも……と少年がうなずいた時。土まみれの足軽が駆けてきた。
「島津が来ました!!!」
予定より早い。そう思いつつも男は冷静に指示を出し、後ろを振り返った。少年の父は青ざめた顔で少年を抱きしめている。高橋は溜息を吐くと、大声で言った。
「戦う気力の無いお前は息子を連れて城から出ろ。お前達が居たら士気が下がる! これは命令だ!」
少年の父親は体が折れんばかりに頭を下げた。一方少年は足早に去っていくその背中に声をかける。
「ぼくはたなかたへえともうします! おじさんのおなまえをおしえてください! ぼくはいつかおじさんにつかえたいです!」
「……高橋紹運だ」
「たかはしさま! げんぷくしたらおつかえいたします!」
「楽しみにしているぞ」
かっこいいな、と少年は高橋の背中をうっとりと見つめていたが。彼は父親にひょいっと抱きかかえられた。
「お前はそもそもどこから侵入したんだ? そこから出れば目立たないかもしれない」
「なんかくろいあなが二つあって、そこから入った」
「それはどこだ!」
「あっち!」
少年を抱えた父親は、土埃と人々の掛け声が交錯する城内を走り。少年の指す穴に辿り着いた。
「どっちだ?」
「おぼえてない……わからない……どうしよう」
助けを求めるように父親の腕を引っ張るたへえ。父親は真剣な顔で穴を凝視していたが、意を決したようにたへえの両肩を強く掴んで、たへえの目を見つめた。
「お前が決めろ。お前の人生だ。……どうか、無事で居てくれ。石と、これはお守りだ。熊とかに襲われたら投げるといい」
「おとうさんは…これないの…?」
「この戦いが終わったら行くよ」
「ほんとに? だいじょうぶ?」
小さな手裏剣と高橋が返した数個の石を受け取って、疑いと不安と、信じたい気持ちの混ざった涙を浮かべて父親を見上げるたへえ。そんな彼の頭を撫でて、父親は明るく言った。
「私はともかく、高橋様が負けるわけないだろう」
「そうだね! じゃあさきにいってるね!」
少年は元気よく穴の一つに飛び込んだ。父親はそれを笑顔で見送ると、両手を組んで天に祈りをささげた。
2
―――ゴールデンウイーク昼。光る緑の木々と対照的な灰色のビルの薄暗い玄関で、半袖ワイシャツの男二人は思わず顔を見合わせた。……不穏な空気がするのだ。壁のあちこちには小さなへこみやひび割れがあるし、蛍光灯も一部が黒く、チカチカと点滅していた。おまけに『不審者を見かけたら会社の垣根を超えて直ちに連絡しましょう』と張り紙もある。爽やかな若い青年は壁を凝視し、傍らの中年男性へ小声で言った。
「先輩、なんかこのビル……失礼なんですけど…ただならぬ雰囲気ですね」
先輩、と呼ばれた背が高い中年男は、苦笑いで答える。
「最近この近くでヤクザの抗争もあったという噂を聞いたしな。でも……懐かしい感じがするんだ」
「え? 来た事があるんですか?」
「いや……気のせいかな。……あ、本日お招きいただきました、埼玉県立底辺高校の田中と鈴木です」
田中は、先程からこちらをチラチラ見ていた受付二人組の視線に気が付き。鈴木とともに会釈する。ヘルメットに黒いチョッキ姿の、厳つい受付二人組は丁寧に頭を下げ。二人に自分と同じ装備を渡した。
「こ、これは何ですか」
「防弾チョッキと防弾ヘルメットです。あくまで念のためですので。お手数ですが帰りにこちらで返却なさって下さい。お急ぎの場合や緊急事態の時には着払いの郵送でかまいません」
「緊急事態ですか!?」
「あくまで念のためです。今のところ死者は出ておりませんのでご安心下さい。日本新歴史社さんは六階です。申し訳ありませんがエレベーターは壊れておりますので、階段をお上がり下さい」
「は、はい。ありがとうございます……」
蜘蛛の巣状に窓ガラスがひび割れたエレベーターに背を向け。二人は首をかしげつつもチョッキを羽織ってヘルメットを被り、六階目指して内階段を上がり始めた。二人の高校へ連名の手紙を送ってきた『日本新歴史社』『瞳は黒曜石社』『稲葉夫人社』『毎日が戦場社』は、日本新歴史社の応接コーナーでプレゼンをするという。
「なんだか無事に帰れるのか不安になってきました……。それにしても、日本新歴史社さんはわかるとして、黒曜石社さんはJKのファッション誌、稲葉夫人社さんは主婦の情報雑誌、毎日が戦場社さんはミリタリー雑誌だし、全然関係ない分野ですよね。なぜ資料集出版に関わっておられるのでしょう」
「こういったら失礼だが、出版業界は今不況だから必死なんだろう……」
「確かに……」
少し固い顔で階段を登り切った二人は、給湯室から出てきた男に案内され。社員達のデスク群とは金屏風で隔たれた、会社の応接コーナーに通された。ちなみにどの会社も社員達は今日は休みだという。
「私は、埼玉県立底辺高校で日本史を担当している田中と申します」
「同じく、鈴木と申します」
「はるばるお越しいただき、ありがとうございます。新日本社の佐藤と申します」
年長の田中、続いて鈴木と名刺交換した新日本史社の佐藤は、スラリとした長身でスーッと給湯室へ向かう。彼は麦茶と、現在の大河ドラマ・伊東祐兵のデフォルメキャラクターが描かれたパッケージのアイス・もう行き倒れない君アイスを持ってきた。二人の教師がそれを食べ終わったところで、佐藤は本題に入った。
「瞳は黒曜石社さん、平成夫人の会社さんは後から来られます。毎日が戦場社さんはパトロールに出ておられるので、今日は来られないかもしれません。……本社の教科書はこちらです」
「パトロールぅ?」
思わず声が裏返る二人だが。見せられた教科書表紙はそんなことを忘れさせるようなものであった。金色に輝く小さな織田信長がいっぱい。昔流行した、〇〇を探せ! 系の絵本のようである。……どれだけ織田信長が好きなのか。他の人物はよいのか。仮にも日本史の教科書なのに……そう視線に出た二人へ、佐藤は面長の顔を少し崩して照れくさそうに頭をかいて釈明した。
「いやぁ、私は実は織田信長公と同じかに座なんでつい……。でも、信長公はおそらく高校生の好きな日本の歴史上の人物ナンバーワンですから、大丈夫でしょう。それに、ちょっとした仕掛けがあるんですよ」
「それは何ですか」
佐藤は教師にいたずらをしかける子供のように、右端を指してほほ笑んだ。
「ここに明智光秀が……信長公の首を狙っているんですよ」
冷たい目で黙り込む田中と鈴木。それを見た佐藤は慌てて教科書を渡した。不審物を受け取るような目でそれを受け取った二人だが。パラパラと教科書を流し読みしておお、と感嘆の声をあげた。日本史Aの教科書は理系の学生用なので、短時間で日本の歴史を理解できる内容が求められるのだが。この教科書はその条件を十分すぎる程に満たしていた。歴史的事件の原因と結果がとてもわかりやすいし、国宝などの画像がふんだんにあって飽きないのである。待ちわびた週刊少年雑誌をむさぼり読む小学生のように。二人はあっという間にその教科書を読み終えた。さらに。資料集にも目を通す。
「田中先生、これいいんじゃないですか! 最新の研究結果も網羅してますし!」
「そうだねえ、表紙を変えてくれれば……」
「表紙なら国宝コラージュバージョンに変えられます! 資料集は文化史は本社が、他のは……」
「遅くなって申し訳ありません! 服飾史の資料集ならうちの雑誌に任せて下さい!」
少し浮世離れした雰囲気の、貫頭衣風ワンピースの若い小柄な女性は、勢いよく部屋に乗り込み。クッキーのように分厚い素焼きの縄目模様の名刺……らしきものを三人に配った。ほの暖かいその名刺を受け取って困惑する二人に、女性は笑顔で挨拶を続ける。
「私は橋本杏奈と申します。月刊プリンセスティーンの編集長をしております。どうぞよろしくお願いします」
大きな目に天然パーマの橋本は、素朴な笑顔で一冊の本を二人の前に置いた。それはお雛様みたいな服装をした二人が、腰に手を当て、斜め立ちしてポーズをとっているもので。二人の苦笑いは止まらない。
「なんかコスプレ雑誌みたいですね……一応古風な雰囲気のモデルさんですけど、カメラ目線が……」
「お待ちください! 中身には自信があります!」
橋本に促され。二人はページを捲った。
『キラキラ雑貨に、アジアンテイストな壁紙……あなたの部屋も古墳にしよう!』
『平安貴族のジャージ☆狩衣』
『肩パット無し甲冑は、陣羽織を羽織るのがフォーマル』
蛍光ピンクの毛筆で書かれた項目に思わず頭を抱えた二人だが。すべての服装は、一応時代考証の監修がついていた。資料集の写真はすべて服飾史の教授とゼミの学生が作った復元品か、博物館等で現存する服飾品であり。時代のイメージはつかみやすい、と二人は思った。写真等資料の著作権もすべて問題ないという。
「高校生にも読みやすい資料を、と話したら、色々な大学や博物館の皆さまが協力してくださいました! 男女ともほとんどの時代を揃えていると思いますよ! モデルも、なるべく薄い顔で小柄の子を選びました!! 特に、ゼミの皆さんは徹夜で頑張ってくれて……優秀な後輩を持って私は幸せです!!!」
かわいらしく無邪気な顔でそういわれ。田中は再び唸った。確かに服飾史だけならクリアしているのだが。生活史や文化史が足りない。
「とてもよい資料集ですが……生活史とか文化史が足りな……佐藤さん? 鈴木? 一体どうし……」
「みんな……がんばったよね……」
資料集の作成風景を見ていた新日本史社の佐藤は、目がしらを押さえ。資料集の編集後記40ページを見た鈴木も、よかったねえとわんわん泣き出した。
「う、うーん……じゃ、じゃあ図書室で十数冊、私が自腹で数冊購入して市の図書館に寄付する、というのはどうでしょう……」
「資料集は一冊じゃなくてもよいではありませんか。生活史なら……」
「皆様、遅くなって申し訳ございません。初めまして。稲葉夫人社の春日でございます」
割烹着に日本髪の、肝っ玉母さん風の中年女性は。『奈良茶飯』という、栗や小豆の入った茶色い混ぜご飯をおにぎりにして持参し、四人にをテキパキと配る。その間に橋本は麦茶のお代わりを持ってきた。春日はおいしいおいしいと皆がおにぎりをほおばっている間に、一冊の資料集を捧げ持った。
「詳しい作り方はこのテキスト……資料集にございます。生活史ならバッチリですわ! 杏奈ちゃんの縄文村での生活記もあります! マンモスの倒し方や竪穴式住居の建て方などは月刊戦場の皆さまや博物館の皆様に寄稿していただきました! これでいつでもタイムスリップできますわよ!」
それはまた大げさな……と顔に出た二人へ。春日は部屋を少し薄暗くして、紙芝居屋のように情緒豊かに資料集を朗読し始めた。まるで本当にその時代の人のような語り口に、田中と鈴木は聞き惚れた。彼らは資料集の世界にどっぷりはまり込み。おにぎりを持ったまま時代旅行をしていた。
「はい! これからは現代の物語でございます。皆様の人生がこれからの資料集の一部となるのですよ」
春日が資料集をパタン、と閉じて、いつの間にかまた照明が点灯したとき。田中と鈴木は我に返った。
「と……とりあえず現代に帰ってこれてよかった」
「やけにマンモス狩りの方法とか馬の乗り方とかがリアルでしたね……弓矢の構え方とかも……」
「大事な商談の途中で申し訳ありません。私は週刊・戦場の編集長、高橋と申します。早く避難しましょう! 緊急事態です!」
突然部屋に駆けてきた精悍な男がヘルメットとチョッキを佐藤達に渡した直後。腹に響く重低音と、人の悲鳴が外から聞こえた。さらに。ビルを占拠するぞ! という雄叫びも響く。
「エレベーターに乗りましょう! 警察署へ逃げるのです!」
「あ、あれは窓ガラスがひび割れて壊れてるんじゃ」
「それはわざとです! エレベーターに乗られないための仕掛けです」
「かしこまりました。とりあえず警察を……」
田中と鈴木はスマホを取り出すが、画面は砂嵐。通話もできない。二人はよくわからないまま。置き薬の箱を抱えた佐藤を引きずり、高橋の導きでエレベーターに乗った。エレベーターが閉まった途端。春日は失礼します、と会釈して高橋をエレベーターボタンから離れさせ、懐から出した石をボタンの下のくぼみにあてた。すると。地下のボタンの下に-1、-2、-3、-4、-5、-6、-7、-8……と続くボタンが現れ4のボタンを押した。
「つ、つぼみさんまさか……」
八の字眉の橋本が、思わず口を手に当てて見つめる中。春日は深々と頭を下げた。
「私は帰ります。今までお世話になりました」
まるで今生の別れのように。春日は涙に濡れた目で重そうな頭を深々と下げる。そして、ヘルメットを被る際に引き抜いていたべっこうのかんざしを橋本に渡した。
「かんざしは、波打つ髪の毛の方がしっかり固定できるのよ。杏奈ちゃんは伊達女だからきっと似合うわ」
「ありがとうございます……どうかお元気で……」
涙で抱き合う橋本と春日。一方佐藤は、彼女へ一抱え程もある置き薬の箱を渡した。
「……春日さん、これ!」
「い、いいのですか? ついこないだもいただいたのに……」
「高橋さんや橋本さんとお金を出し合ったんですよ。……息子さんよくなるといいですね」
「ありがとうございました……本当に……」
「すみませんが早く降りないと!」
「本当にお世話になりました。早くエレベーターから降りて、ドアから離れて下さい」
高橋と春日からせかされた皆がエレベーターから降り、ドアが閉まった直後。エレベーターは光り輝き、ゆっくり下に降りて行った。最前列の橋本は急いでポニーテールのゴムの先にかんざしを挿して、お辞儀する春日に手を振った。
3
その後。五人は地下室の畳張りの部屋に入った。高橋は部屋の机を立てかけてバリケードを作りながら、奥の「非常口」と点灯するライトを指した。下に分厚いドアがある。
「あそこから地上に脱出してください!」
「はい! あの……いえ、なんでもないです」
高橋さんの声はどこかで聞いたことがあるし、デスクの上にあった石も、どこかで見たような気がするなぁ……そううっすら思いつつも、田中は机を持ち上げながら鈴木に佐藤と橋本をまず脱出させるよう指示し。外からの振動で揺れるバリケードの数メートル後ろでエアガンを構える高橋に振り返った。早く逃げましょう、と声をかけようとして、彼ははっとした。夢でよく見た、あの背中だった。
「……今まで忘れていて申し訳ありませんでした。高橋様」
全てを思い出した田中には、塩辛い水の壁で高橋の顔がにじんで見える。岩屋城……高橋紹運が、彼の家臣が、最後まで宿敵と勇敢に戦った……あの城。父を追いかけて岩屋城にこっそりついてきた幼い田中は、父や高橋に説得されて城の出口に繋がると思われた穴から脱出したのだが。そこは異次元との境目であったのだ。
「どうかなさいましたか?」
高橋は涙でぐしゃぐしゃになった田中の顔をまじまじと見て、額ど真ん中のほくろに、まさか、と声を上げた。その直後。三人の男がドアを蹴破って田中と高橋に揺れる銃口を向けた。
「こ、このビルは占拠したアアアアア……よ。 手を上げろォ!」
「逃げろ!」
高橋はエアガンでドアの上のくすだまを撃った。それが割れてシューという音を立てたと同時に消火器のような霧が広がり。男達は目をこすって転がって悶絶しだす。だが。
「お前らまじつかえね……けほっ」
「高橋様ーーーーー!」
霧の壁の内側に現れた新たな男。彼は涙目でせき込みながらもあてずっぽうで銃を撃ち。高橋のヘルメットを射抜いた。ひび割れたメットの高橋は倒れ。男は咳き込みがら再び銃を構える。
「高橋様!」
「次はお前だ!!!」
二発目が飛んでくるより先に。白いベールに覆われた男の足元が見えた田中はずっとお守りで持っていた手裏剣を出し。川辺で水切りをする要領でヒュン! と投げた。手裏剣はザクッ、と鈍い音を立てて男の靴に突き刺さり。男は低い声で呻いて座り込む。田中はさらにデスクの上にあった見覚えのある石を拾って投げ。石を額に受けた男は前のめりに倒れた。
「たかはしさま……たかは…し…さ…ま」
返事は、無い。田中は嗚咽を漏らしながら高橋をゆする。そんな彼に背後から忍び寄る三つの影があった。その影は小声で田中に囁いた。
『ゆすっちゃ駄目だ。どこからも出血してないから生きてるかもしれねーぞ』
『俺らも手伝うから一緒に警察行こう。ついでに情状酌量証人になってくれ』
『ほら、スマホ』
唐突な展開に驚く田中だが。三人がさっさと高橋を担いで非常口に走ったのを見て、慌ててついていった。こうして田中達は地上へ向かった。……のちにわかったことだが。あの三人は本当はビルを占拠する気もなく、組抜けがしたかったのである。だからわざとビルを占拠するぞと騒いで知らせたり、ゆっくり追いかけてきたのである。悠長に春日と別れの挨拶をしていても追いつかれなかったのは、そのせいであった。彼らは幸いまだ殺人等の重罪には手を染めてはいないという。取り調べが終わった頃には銃声もやんだ。警察の警護パトカーで高橋が搬送された病院に向かった田中は、手を組んで頭を乗せ。高橋の無事を祈った。
―――一か月後。田中と鈴木は吉報を持ってまたあのビルへ向かった。が。
「無い!」
「どういうことだ……やはり場所が危険だったから引っ越したのか?」
ビルがあったはずの場所は、更地になっていた。目をなんどもこすっても、その風景は変わらない。だが。飛んだビニール袋の動きを見て、田中は跡地へ走った。何かにぶつかって落ちたように見えたのである。鈴木は慌ててそれを追いかけた。田中と鈴木は手探りで建物に入ると。中にこないだと同じ玄関が広がった。彼らは階段を駆け上がった。
「佐藤さん! 佐藤さんですか!」
「社長! お客様です!」
普通に社員が居て働いている風景にちょっと拍子抜けしつつも。社員に応接コーナーに誘導された田中と鈴木は書類、そして手紙の束をテーブルに置く。すぐに鈴木は少し赤い顔で興奮気味に言った。
「教科書も資料集も採用されました! ちなみに資料集は全部を一冊にまとめて生徒に見せました。好評でしたよ!」
「そうですか。よかったです。……二年A組の田中翔君は読んでくれましたか」
「……はい。彼は通学時間にも読んでいると言っておりました。将来は歴史学者になりたいそうです」
佐藤は心からほっとしたような、重い塊をやっと体から吐けたようなそんな顔で長い息を吐き、ほほ笑んだ。
「それは……本当に良かった。そうだ、橋本さんのところへご挨拶にはい行かれましたか?」
「……い、一応昨日話はしてあります……」
いつの間に。そう思いつつも田中は鈴木に橋本へ挨拶へ行くよう依頼すると、低い声で尋ねた。
「あの、引っ越さなくて大丈夫なんですか?」
「それが一番良いのですが、どうしてもこの場所でないといけないんです」
なぜなのか、と問おうとして、彼はこのビル近辺に来ると見たこともない砂嵐画面になるスマホ、さらに光り輝いたエレベーターを思ってうなずいた。彼は、少し不安そうに次の質問をした。
「高橋様はどうなされましたか。病院から消えてしまったんです」
「帰りましたよ」
「やっぱり……」
思わず顔を覆って体を小刻みに揺らす田中の、薬指の指輪を見て。佐藤は春風のような声で言った。
「皆、それぞれに守りたいものがあるんですよ。田中先生は家族、高橋さんは忠義、春日さんは……主君。私も……」
「お話しのところすみません! 社長! お電話です」
青いガラスの屏風をノックされ、佐藤は数分で戻ってまいります、と一礼して席を立った。かしこまりました、とうなずいた田中は、ふと外を見た。高橋の心のように澄んだ空が見える。そして、最後まで自分を守ろうとしてくれた父親の姿が窓ガラスに映った気がした。田中は潤んだ目でかすかに笑った。紹運様みたいな生き方はできない。でも。私にもできることはあるんだ。
「夏休みには、補習やらなきゃな」
田中は手帳を開いた。
※エレベーターがタイムマシーンという設定はのはニューヨークの恋人?という映画を参考にしました
この話はフィクションです。登場人物のマネは絶対にしないでください