つかの間の幸せ
第一章
つかの間の幸せ
もうすぐ梅雨に入る頃だ。既に真夏の暑さが続いているが、この時間はまだ爽やかな風が吹いている。
俺は、あれから軽く朝食を済ませ、バリ風にアレンジしたリビングで新聞を読んでいた。
庭で里奈が洗濯物を干している姿が良く見える。
持っていたタオルを一端籠に戻すと、眩しそうに片手で目を覆いながら、こちらを向いた。
「一樹、洗濯物干し終えたら、一緒に買い物に行ってくれない?」
「ああ、いいけど、今日は三峯達が買い物して来るって言ってたよな?何か欲しい物でもあるの?」
「涼子達が来るのは夕方よね?ちょっと行きたいお店があるんだぁ。」
「分かった。たまにはデート気分でショッピングといくか。」
里奈は、嬉しそうに頷いた。
穏やかに時が過ぎて行く。こういう時間が本当に幸せだと思える。
今朝の夢の事は話していない。自分が襲われた夢なんて気分のいい事ではないだろう。
俺が早朝にシャワーを浴びるのも、今日が初めてではない。
前日に同僚と飲みすぎて、酔いざましに朝の暗いうちにシャワーを浴びる事がたまにあるからだ。
里奈とは5年前に結婚した。
出会いはいたって平凡だった。
俺が大学三年の夏、通学途中の電車の中で一目惚れしたのだ。
彼女も学部は違ったが同じ大学の一つ後輩だった。
スレンダーな長身、染めた色ではない独特の栗色のショートヘアが良く似合っていた。
切れ長の大きな瞳、一見とてもクールな印象だった。いつも携帯電話ではなく単行本を読んでいたのも印象的だった。
俺は、思い切ってアドレスを聞いた。まぁ、ナンパの様な切り出し方だったが、実は彼女も俺の事が気になっていたらしい。
俺はというと自分では分からないが、モテたのは確かだ。
かなりの女の子に告白されたが、何故か興味がなく、中川一樹はホモセクシャルではないかと噂になった事もあった位だ。
付き合い始めると、外見とは違い、どちらかというと甘えん坊の妹と言う表現が一番似合った。
少々天然な所もあり、今でも笑わせてくれる。
付き合い出してから、里奈は良く家へ来た。
それと言うのも、お互いに実家が横浜だと言う事もあるが、俺の家にはセナという猫がいた。
俺が11才の頃、親父は単身でシンガポールに赴任していた。
知り合いの中国人から、タイ原産のコラットという種類の子猫をもらった。
元々、両親は動物が大好きで、俺が一人っ子と言う事もあり、情操教育にも良いと貰い受けたらしい。
その後、直ぐに親父はセナを連れて本帰国した。
セナは濃いめのグレーの猫で、とても穏やかで賢かった。
コラットという猫は、タイでは「幸福を運ぶ猫」と言われている。俺はセナを溺愛していた。
そのセナ会いたさに里奈は家へ来ていた。
セナが病気になり、10才で亡くなった時には、二人で泣き明かしたのを今でも思い出す。
勿論、お墓も建てた。セナの骨の一部は今でもペンダントにして身に付けている。
男の癖に女々しいと言われそうなので、この事は両親と里奈しか知らない秘密だ。
里奈とこうして幸せな結婚が出来たのもセナのお陰だと思う。
それから、俺は弁護士になった。
ある程度名の知れた事務所に所属し、それなりに高給を稼げる様なった、そして、1年前にこの横浜の高台に建つ家を買った。
あともう1つ願いが叶えば、何も言う事がない。
里奈との子供が授かる事だ。
「一樹、もうすぐ行くわよ?支度してね」
彼女はライトグリーンのフンワリしたワンピース姿で、残りのコーヒーカップを洗いにキッチンへ向かった。
「了解!俺も着替えてくるな」
俺は二階へ上がるとコバルトブルーのティシャツと白いジーンズに着替えた。