落ちて、堕ちた
寒いな。
力の入らない体に、霞む視界。朦朧とする意識の中で、それだけが分かった。目蓋をゆっくりと持ち上げて浴室の白い壁を映す。次いで、オレの凭れかかっている浴槽に目をやった。赤い、水溜まり。
その色は、本来オレの体の中にあるべきものだ。けれど、オレが出口を作ってやったから、それは流れ出て行って、浴槽に張ったままの生暖かい水に混じってしまっている。指先の感覚はもう無かった。
今回は、ダメかな。自嘲的な笑みを顔に貼り付けて、そう思った。けれど、それでも良かった。これで終わりにできるのなら、それでも構わない。このまま時間がすぎれば遠からず訪れる結末に、冷たくなったオレを見て、君はきっと泣いてくれるだろうし、何て言ったってそうすれば君の記憶の中でオレは永遠だ。
優しい君は、オレのことを忘れたりなんて出来ない。
仄暗い満足感に浮かされながら目を瞑ったオレの耳に届くのは______
「風澄っ……!」
慌ただしく駆ける足音。薄っぺらな浴室の扉が勢い良く跳ね開けられて、乱れた呼吸のまま君がオレのそばに膝をついた。あぁ、今回も間に合っちゃうんだ。笑おうとしたけれど、表情筋が言うことを聞いてくれない。どんな表情をしているのか伺いたかったけれど、首を持ち上げるのすら億劫で、ショートパンツから覗く君の白い足を見やって、ゆっくりと意識を闇に紛らせた。
こいつとの関係性を何と言おう。
友達?知り合い?学校も、学年すら違う。出会ったのは1年前に道端で偶然、なんてそこだけ聞いたらドラマチックだろう。でもそんな素敵なシュチュエーションは皆無。年上だなんて信じられないほど華奢なこの男を私は不幸にも拾わされたのだ。
ちょうど去年の今頃。梅雨の明け切らないこの時期特有のじっとりとした空気と、鈍重な雲が街を包み隠す陰鬱な夏の日。私は、人が降ってくるという怪奇現象を前に、声ひとつ上げることすら出来なかった。
「え……?」
どさり、とかどん、とかぐしゃり、みたいな耳障りの悪い音を立ててそれは上から降ってきた。思わず視線を上に向ける。10階建ほどのマンション。私とは縁のなさそうな、高級感あふれる外装に築浅であろうきれいな佇まい。
落ちてきた?何が?
混乱の中にあった私はちょうどマンションの中ほど、5階あたりの窓からま白いカーテンが揺れるのをただ呆然と見つめて、それから数秒してやっと、落ちてきた「何か」をしっかりと確認した。
横たわるのは人。うめき声を上げて体を捩るその様子に、パチリと思考が嵌ってからの私の行動は自分でも不思議なほどに冷静だった。
「話せますか?どこを打ちました?今、人を呼びますから……!」
咄嗟に周囲を見渡したけれど、閑散としたその通りに人影は見当たらなかった。駆け寄ってみれば、落ちてきたその人はそう自分と年の変わらない少年だった。こんな状況でなければ目が覚めるほどの美少年ってやつなのだろうけど、その時は容姿の美醜なんて昨日の晩御飯はなんだったっけ、ってことよりも遥かにどうでも良かったので、躊躇なく薄茶色のサラリとした髪に手を伸ばした。
「頭、打ってなさそうですね。とりあえず、救急車呼びますから……っえ……わ!」
その少年の頭から手を離してカバンに入っているスマホを取り出そうとして、遮るように伸びてきた腕にその動作を止められた。
「…っあ、いい、から。ちょっと、滑っただけ、だから。頭とか、打ってないし」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう?あそこ!あんな高いところから落ちたら、頭じゃなくてもどこか絶対怪我してますよ!」
「…っ、それでも、いいから。騒ぎにしないで。し損なったなんて、面倒だから。自分で、行ける……から」
腕を拘束する力が思いのほか強くて、けれどそれがぞっとするほどに冷たくて、その時何より私は怖かった。目の前のこの人が、死んでしまうんじゃないかってこと。それが異常に恐ろしかった。
行けるというなら連れて行ってやんよ!……あぁ、私って漢らしい。電話でタクシーを呼びつけて、見知らぬ少年に付き添うなんて、今考えればお人好しが過ぎないかな?行き先だけ告げて、さっさと帰ってしまえばよかったんだ。そうすれば今頃、こんなことには____
「千夏!今日も、寄って行って」
ほんわり微笑む少年は可愛い。もう、これは負けを認めざる得ない位、愛くるしい容姿のこの男。これで20超えてるとかほんと、詐欺だ。青く透けそうなほど白い肌に、日に透ける柔らかそうな髪。パッチリとした小動物のような瞳が私の姿を認めてきらきらと輝く。
通学路の途中にある当時の現場の前で、風澄はいつもぼんやりと立っている。何の感情も浮かばない顔が、私の姿を捉えると同時に生気に満ちて感情を露わにする。なつかない動物を手なづけたような胸の奥でざわざわと犇めく気味の悪い感情を無理やり押し込めて、私は迷惑そうな顔を作ってみせた。
「……私、一応受験生なんだけど。そんなしょっちゅう寄り道ばっかりしてらんないよ」
「なら僕、勉強見ようか?一応大学生だし」
「一応、ってなによ。一応って」
「だって、いちおう、だし。そんなにいいもんかな?大学なんて。卒業さえできればいいよ」
くす、と小さく軽薄な笑みを漏らしながら心底どうでも良さげに吐き捨てる彼が、本当に大学生なのか私はかなり怪しんでいる。帰宅部で受験生で昼過ぎには下校する日だって珍しくないのに、風澄はいつもこうして抜け殻みたいにここにいる。
「そーいうの、現役の受験生に向けて言わないでよ」
「あははっ、そっか千夏も大学生になるんだもんね」
「そりゃあ、なるよ」
「そうしたら、大学受かったら一緒に住もうよ。僕と同じところ受けるんでしょ?近くていいよー」
にこにこと含みなく笑う風澄にかばんを奪われて、毎度のごとく部屋までグイグイと引っ張られて寄り道させられる羽目になる。これが、今の私と彼の距離。この関係を、何と言おう?
「はい、どうぞー。今日も暑いよね。冷たいお茶入れるよ」
5階の窓。真白いカーテンの内側は、彼の城だった。ベッドと、冷蔵庫と、パソコンと、ソファー。あとは壁際にズラリと本棚が並ぶ、色と物の少ない無機質な部屋。座ってて、と言われて向かったソファーの前、テーブルの上にはパソコンが置かれている。その脇に散らばる、大量の薬。それを無造作に脇へ追いやって、グラスに注いだ麦茶をとん、とテーブルに置いた彼が、背中越しに体を乗り出して、私の顔を覗き込みながら無邪気に笑った。
「こーいうの、無くても大丈夫になるよ、僕。千夏が傍にいてくれるなら」
「…………。」
大量服薬に、飛び降り未遂に、リストカット。私が何かと理由をつけて部屋に寄るのを拒めば、風澄はそうして無理矢理に私の目を惹きつけようとする。あからさまに、机の上に薬を並べて見せびらかしたりして、そういうのもパフォーマンスだって分かってる。
でも、きっと私が目を背ければ、彼は居なくなる。
「ねぇ、千夏。僕とずっと一緒にいようよ。っていうか、僕お金もあるし、顔もまぁまぁだし、頭も悪くないし、結構いい物件なんだよ?」
背後から回ってきた腕が私の肩から伸びて、ゆるく抱きしめられる。
「ねぇ、千夏」
私の名前を呼ぶその吐息まで、温度がない。風澄にとって、私はきっと体の良い精神安定剤なんだ。分かってる。
「考えておくよ。……大学受かったら、ね」
胸の前で組み合わさった彼の腕をぽんぽん、と軽く叩いて返した。
「うーん……。じゃあ、勉強しよっかぁ。面倒だけど」
そう言ってするりと離れていった腕に、寒気を覚えるようになったのは、いつからだっけ?
君がいないと、生きていけない、なんて。小説や映画の中で有りがちな気障ったらしい理由なんかじゃない。千夏、あの時、あの日に。全部終わりにしたかったオレの前に現れた、君がいけないんだ。何のためらいもなくオレに触れて、ずっと心配そうな顔で話しかけていてくれた、それだけでオレは君に堕ちた。
「絶対受からないとだね、大学」
「当たり前じゃん」
机を挟んだ正面から、千夏を見つめる。参考書に落とした目線を、オレが話しかけた時だけチラっと上げる。その瞬間、オレがその目に写ってる。これが、日常になればいいのに。
君の目にいつもオレが映る、そんな日常を。
檻を作ろう。優しい君だから、抜け出せない。広い檻を。
参考書から少し視線を上げて、頬杖付いて教科書を覗きこむ彼の綺麗で空虚な目をそっと見つめた。気が付かれないように、そっと仕舞って置かなければいけない。
私という檻に囲い込まれる彼を、愛おしいと思う、こんな歪んだ感情は。
「ちゃんと受からせてよね、センセイ」
「当たり前だよ。……って、同じ事言ってるし」
何も気が付かない鈍い子のふりをして、あははっ、て笑う。貴方の作った檻のなかは、存外悪く無いから。私がいないと生きていけない、可愛い風澄。あなたの傍に、居てあげる。




