黒不浄と白不浄
黒不浄というのは、神道において死を穢れとして扱う時の呼び名で、白不浄というのは出産のこと。神様はこれらを嫌うのだとか。死ぬ為には生が必要で、出産は言うまでもなく生が誕生すること。人間の営みにとって根源的なものであるこの二つを嫌うって事は、人間の存在をそもそも認めないって事なんでしょうか? 神様。
と、思わずツッコミを入れたくもなるけど、まぁ、そこは置いておいて、ちょっと人間社会の話をしよう。
実は、神道に倣っている訳でもないのだろうけど、人間社会、特に医療という分野は、この黒不浄と白不浄を嫌う傾向にある。
これは、まぁ、もちろん、半分は皮肉なのだけど。黒不浄… 死を嫌うのは、自然死を拒否して無理矢理な延命治療を行っている点が当て嵌まるし、白不浄を嫌うってのは、産婦人科の医師不足を野放しにしている状態を、皮肉ってみただけ。
普通に考えるのなら、医療資源は限られているのだから、その限りある資源を、新たな生命の為に利用すべきで、老衰での自然な死を無理矢理に拒否する事に費やすべきではないと簡単に分かる。
どうして、こんなに簡単に分かる事ができないのだろう?
と、まぁ、理不尽だなぁとも思うのだけど、視野を大きくすれば当たり前に分かる事も、自分達の目に入る範囲しか観ていなかったら、分からないってのは、往々にしてあることだから、仕方ないのかもしれない、とも思う。ただ、それでも、この状態は放ってはおけない。何しろ、この傾向によって発生している人間に対する負荷は、高齢社会で、ますます酷くなっているのだから(一応、弁護しておくと、基本的には、医師会は延命治療を中止にし易くする方向へ動いているようだ)。
はっきり言って、延命治療ってのは、一体、誰の為にやっているのか分からない(冷静に考えれば、そもそも“治療”じゃない)。
近所のある家が、お爺ちゃんに延命治療を施していて、つい最近止めたと聞いた。恐らくつい口を滑らしてしまったのだと思うのだけど、そこの家の人が、その事情を僕にそっと教えてくれたんだ。
それによると、これ以上の治療を行うと、保険の適応範囲外になってしまい、金がかかり過ぎるから止めたのだという。早い話が、経済的な理由だ。因みに、そのお爺ちゃんはもう喋れず、意識もほとんどない状態になっていて、その判断は家族が行った。
どうだろう? こういう話を聞くと、本当に延命治療の意味が分からないって思わないか?
「延命治療を受けたいか?」と質問すると医師の多くは、「嫌だ」と答えるのだという。もちろん、延命治療を常に見ている医師達には、それがどれだけ悲惨な状態なのか分かっているからだろう。
保険の適応範囲で、それほど金がかからないと言っても、それは家族だけの話で、医療保険からはかなりの額が支払われている。それはもちろん、保険料や税金を支払っている一般の人達の負担になる。延命治療全体では、一兆円規模らしい。延命治療はできる限り止めて、それを産婦人科の予算に回した方が、どれだけ有意義か分からない。新しい命に資源をかける方が、より重要なのは当たり前なのだから。
あ、余談だけど、白不浄… つまり出産に関しても、ちょっと面白い話がある。女子高生が妊娠し、トイレで出産した… なんてニュースを耳にする事が時々ある。そういう時、僕は出産ってそんなに簡単なものなのか?と驚いたりする訳だけど、最近になって、事情が分かった。実はこれは“姿勢”に秘密があるらしい。
出産シーンを思い浮かべてもらうと分かると思うのだけど、大体が横になっているだろう。これだと、重力の助けがない上に、力も入れ難くなるから、出産がより苦しくなるのだとか。
トイレでの出産の場合、恐らくは座っている姿勢で産むのだろう。そうすると、重力の助けと子宮の収縮力の影響で、赤ちゃんはすんなり生まれ易い。だから、女子高生は、たった一人でトイレで出産する事ができたって訳。
その昔にあった産屋には、天井からロープが下がっていて、妊婦はそれを握って、座位で赤ちゃんを産んでいたらしい。
現代の病院での出産も、この発想を取り入れて、座位分娩での効率良いの出産方法を模索すべきじゃないだろうか?
そうすれば、医療資源をもっと節約できるし、妊婦さん達への負担も減るかもしれないのだし。
エッセイ、私小説風に書いてみましたが、違ったりします。
参考文献:大往生したけりゃ、医療とかかわるな
他にもありますが、思い出せない…
雑多に、色々読んでいるもので