俺と優奈
小さな窓から差し込む光が溜められた水面をきらめかしている。
小さな空間、冷たい樹脂製の壁に床。そこに一人の少女は座り込み、黙り込み、その細い左腕は目の前のバスタブのきらめく水の中につけられていた。
少女がカッターを握りしめた小さく震える右手を自分の左手首に、ゆっくりと近づけていく。
鋭く尖ったカッターの刃が少女の手首に、冷たい感触を与えると少女はゆっくりと目を閉じた。
目を閉じた少女の頭の中には穏やかな陽が差し込む教室のイメージが浮かぶ。
左隣の机の列。三人前に座る男子生徒。大きな背中。窓から差し込む陽ざしを眩しそうに目を細めた横顔。その横顔は陽の光に輝いている。
「高橋君。
私は高橋君を見つめているだけで、幸せでした。
お父さん、お母さん、ごめんなさい」
そう言うと、少女は力を込めて、カッターを持つ右手をひいた。
「うっ!」
少女が痛みに顔をしかめる。光を反射していた水面は赤く盛り上がった。
「全てはこれで終わる。汚れた私も終わる」
少女の言葉はそこで途切れ、痛みも目の前の光景も徐々に闇に包まれ始めた。
2019年5月30日。
朝の街の空気は澄んでいて、吸い込むと気持ちいい。車はまだほとんど走っていない。時々すれ違うのは犬の散歩をしている人か、俺 高橋翔と同じようにマラソンをしている人たちがほとんどである。まだ、通勤、通学のために駅に向かう人は少ない。
この辺りは普通の住宅地であって、戸建て住宅がひしめき合うよう建ち並んでいる。俺の家もそんな中にあって、もうすぐそこである。
俺が家にたどり着いた。門扉なんてものはなく、道路に直接車一台分の駐車場と玄関のドアが面している。
立ち止まると、俺は深呼吸しながら、肩にかけていたタオルをとって、額から顔全体に流れる汗をぬぐった。ドアのとってに手をかけて、中に入る。玄関のすぐ先はトイレにお風呂。さらに奥はダイニングキッチンで、キッチンのところには俺の母親が朝食の準備をしてくれている。
「おかえり」
俺が帰ってきた事に気付いた母親が、振り返って俺にそう言った。俺はそれに軽く手を振って応えながら、脱衣所に向かった。
何しろ、俺は体中、汗でぐっしょりである。脱衣所で着ていた服に下着を脱ぎ、洗濯物入れに放り込んで、風呂場に入った。
シャワーをひねると適度な温もりのお湯が噴き出してくる。
気持ちいいじゃねぇか。
俺は頭から足のつま先まで、全てを軽く洗い流して、べたつく汗を流し去った。これから、朝食を摂って、学校に行かなければならない。朝から、こんなところで時間を潰してらんない。
ささっと終わらして脱衣所に出ると、バスタオルで体を拭きながら、廊下に出た。二階の自分の部屋にしか、俺の下着はない。バスタオルで下半身をくるみながら、階段を目指す。
ダイニングの片隅にはテレビがついていて、ニュースをやっている。俺はそんなものを真剣に見る趣味はないので、ちらりと目を向けた後、階段に視線を移した。
いつものように、テレビからすぐに視線を移してしまったが、テレビ画面に俺の学校の名前が出ていたような気がしたので、すぐに視線を戻した。
「斬首猟奇殺人事件 被害者は大和塩見高校2年生」
画面に書かれていた文字が、はっきりと認識できた。
俺は二階に向かっていた足を止め、ダイニングに向かってテレビの前で立ち止まった。
昨日、この街では事件があった。首を切断された4人の遺体が見つかったのだ。それも同じ場所ではなく、異なる場所で。
被害者はだれなのか?
首を切断すると言う殺害方法の意図は何なのか?
どうやって、首を切断したのか?
昨日、ニュースはこの事件で大騒動していた。
今朝、俺が日課のマラソンに出かける時に、母親は注意するようにと言ったくらい、この街の住人には衝撃だった。もちろん、俺だって、気をつけねばと思っていたくらいだ。だからと言って、どう気をつけるのかと言う話はあるが。
その被害者が俺の学校の生徒だった。しかも、同じ2年生ではないか。
被害者は俺の友達と言う事だってありえる。俺はテレビにくぎ付けになった。
TVのキャスターが昨日起きた猟奇殺人の被害者の身元が分かったと言う話を始めた。俺はもうがん見である。
「昨日、首を切られた状態で発見された男女4人の身元が判明しました。
殺されたのは大和塩見高校2年、中浜良正、佐々木俊輔、井上昌也、大下綾菜の4名です」
「綾菜が」
思わず、その名を口にしてしまった。
綾菜は幼稚園の頃からの友達で、今も同じクラスだ。どちらかと言うと派手系。俺に色々と話しかけてくるので、俺としても悪い気はしていなかった。
そんな綾菜が殺された。それも無残な殺され方で。
一体誰が、何の目的で。
俺は犯人に憎しみを抱かずにいられない。
もちろん、綾菜以外の他の3人も知っている。基本的に不良と呼ばれる奴らである。まあ、レベルが高くない俺の高校では真面目な奴の方が少ないが、こいつらはワルの中でも別格である。佐々木に関しては付き合いはないが、同じクラスである。
呆然としていると、母親が料理の手を止めて、俺の横にやって来た。
「翔の同じ学年じゃない」
心配そうな顔つきで、テレビを見つめながら、そう言った。
「ああ。
二人は同級生だ」
「それは大変じゃない。
あんたは大丈夫なの?
この子たち、どうしてこんな事になったの?」
それは俺だって聞きたい。
「優奈ちゃんは大丈夫なの?」
俺はその言葉で優奈にこの話をしたくなり、母親を無視して、階段に向かった。
優奈。岡本優奈。隣の家に住む幼馴染で、今は俺と同じクラスにいる。
俺が階段を上る足音が、けたたましく狭く、薄暗い空間に響き渡る。俺は2階に上がると、ポケットに手を入れて、スマホを取り出した。
優奈に電話をかけ、スマホを耳にあてる。俺の耳に呼び出し音が、何度も繰り返して聞こえてくる。
出やしない。
寝ているに違いない。
俺は自分の部屋の窓を開けた。狭く立て込んだ街の住宅地。俺の家の壁と優奈の家の壁の距離はほんの1mほどしかない。優奈の部屋の窓は俺の部屋の窓の斜め前にある。優奈の部屋の窓にはカーテンが引かれているだけでなく、ガラスにはエコと目隠しを兼ねて、プチプチが貼られていてるので、中の様子は全く分からない。ただ、カーテンの隙間からのぞく優奈の部屋の中が暗い事は分かる。
やっぱ、寝ていやがる。
俺は床掃除のために部屋の片隅に置いたままにしているプイップルワイパーを手に取って、優奈の部屋の窓をコンコンと叩く。
何の反応もない。仕方ないので、俺は連打で、窓を叩き続けた。やがて、優奈の部屋のカーテンが開いた。
やっと、起きやがった。
そう思って、俺はプイップルワイパーを俺の窓の横の壁に立てかけた。その時、優奈の窓が開いた。そこから現れたのは、猫の着ぐるみパジャマ姿の優奈だった。普段は大きな瞳も、眠そうに半分閉じている。
「何なのよ。
こんな朝っぱらから」
そう言ったかと思うと、いきなり半分閉じかけていた瞳を大きく見開いて、叫んだ。
「何のつもりよ。
ばか!」
優奈が窓を勢いよく閉じた。
「な、な、何がだよ」
俺はそう言ってすぐに、優奈が怒った理由が分かった。俺はお風呂からあがって、バスタオルを下半身に巻いた状態のままだった。
「ま、ま、待て。
これは俺のうっかりだ」
そう言ったが、窓の向こうから反応は無い。あわてて、俺はスマホをとって、優奈に電話をかけた。
「何よ、その恰好。
朝から、私にそんな裸見せて、何考えてんのよ!」
電話に出たとたん、優奈に怒鳴られた。
「それだけ慌ててたんだよ。
お前だって、知ってるだろ。昨日、首を切断されて、人が殺された事件があったの」
「それが、どうしたって言うよ?」
「あの4人。うちの学校の生徒だったんだよ。
しかも、その内の二人は同じクラスの佐々木と大下だったんだよ」
俺のその言葉に、優奈は電話で返事をせず、いきなり窓を開けた。
「まじ?」
真剣な顔つきで、そう言ったかと思うと、再び俺の姿を見て、ぴしゃりと窓を閉めた。その後、優奈は窓から顔をのぞかせる事も、俺の電話に出る事も無かった。
再び優奈と会ったのは登校のために、家を出る時だった。俺は日々、優奈のお迎えが日課になっている。
はっきり言って、俺は優奈の家の前で、いつも待たされている。なんだか、ちょっと情けないじゃないか。そう思ってはいても、どうしようもない。何しろ、俺が遅れて、優奈が先に家を出ようものなら、「どうして、待ってくれていないのよ!」と非難されてしまうのだから。俺は優奈に非難されないためにも、早く家を出て、隣の家の前でぼぉーっと立って、優奈が出てくるのを待っているしかないのだ。
「いってきまぁす」
優奈の声が玄関のドアの向こうから聞こえたかと思うと、優奈の家の玄関のドアが開き、セーラー服姿の優奈が現れた。濃い茶色で、肩までのストレートヘア。どちらかと言うと丸みのある顔立ちに、大きな黒い瞳に負けない鼻筋。
はっきり言って、俺はこいつが好きだ。
「ちょっと、あれどう言うことなのよ」
俺も知る訳ない。それをそんな詰問口調で俺に言うのはどうしてだ?
それがこいつの特徴だ。もう慣れてしまった俺は、そんなところがこいつらしいと思ってしまう。
「知る訳ねぇじゃん。俺だって。
そんな事、お前のお兄ちゃんに聞いてくれよ」
そう。こいつの兄貴は刑事さんだ。それも、シスコンで、警官になった動機は妹であるこいつを守りたいためだと、もっぱらのうわさである。
「お兄ちゃん。
昨日も帰って来てないわよ。
きっと、この事件の犯人、捜してるのよ」
とにかくだ。とんでもない事件が身近なところで、起きてしまった。
優奈と綾菜、そして俺は同じ幼稚園、小学校、中学の出身だ。確か優奈と綾菜は仲のいい時期もあったが、中2の時には優奈が綾菜を嫌っている風になっていた。それだけに、優奈は綾菜に冷たかったので、あまり衝撃は受けていないだろうが、俺は綾菜となら、間違いを犯してもいいくらいの気持ちがあったので、心の奥ではショックが広がっていた。だが、そんな事、優奈に気付かれれば、どんなに非難されるか分かったもんじゃない。優奈の前では、平然とした態度を取り繕っていた。
俺や俺と同じ学校の生徒たち、そしてその関係者の多くはこの事件が、まだまだ続くのではと言う事を心配していた。他の生徒たちがまだまだ同じような殺され方をするのではないかと。
しかし、あの4人の後に続く殺人事件は起きなかった。
ただ、別の異様な事件が起きた。
超能力者?としか言いようのない犯人が起こす犯罪が。




