5.言葉の壁は無くとも言語の壁は高く
星来は食事を済ますとリアを連れて街の唯一にして最大規模を誇る王立図書館に足を向けた。この世界に来てからすっかり習慣となった言葉の練習の為だ。
「今日はこの本読んでみろ」
リアはやたら分厚い本を星来に差し出した。
「何て読むの?」
「『哲学と日常』」
「…その心は」
「理性と本能のせめぎ合い」
ぱらぱらと軽くページをめくると、ちらちらと専門用語が見られた。挿絵も少ない。難しそうだが何とか読めそうではある。ただちょっと大人な表現がありそうである。…本能のあたりで。
「それは世に出る前の子供が一度は読む有名なもので…セーラは逆だが、こういうのも読むのも無駄にはならない」
ならないけど、今更な感はある。
「中途半端に言葉が分かると、かえって面倒ね」
星来はこれまで何度も口に出したぼやきを呟いた。
星来はリアと出会って初めて会話を交わした時、言葉が通じたことで安心した。道を訊くにも職を探すにも、まず言葉が通じることが前提だ。身ぶり手ぶりでジェスチャーをするにも、元々の世界だって国によって意味が違ったりしたのだから、いわんや異世界。どんな解釈がされるか分かったものじゃなかった。
しかし、掃除の仕事がてら、意外と面倒見がいいらしいリアに日常的なことを教わるようになると、言葉は分かるが単語の意味が分からない、という事態に度々遭うようになった。現在でも時々遭遇する。
どうやら自分の世界に馴染みのない言葉が、星来の耳にこちらの発音そのままに入ってくるらしい。果実の名前や機関の名前とか。その上、単語の意味は分かりはしても、それがそのまま元の世界の意味と同じとは限らなかった、ということもある。
なまじ言葉が通じる為に何処まで自分が理解しているのか判断が難しく、混乱した時期もあったが、考えてみれば、言葉の意味を考え理解するのは、元の世界の常識に則って処理しようとする己の脳である。国どころか世界が違うここでは食い違いが生じるのは当然だった。
そう納得すると、文字も読めないことも当たり前で。
とりあえず店に掲げる看板の文字は早々に覚えておいて、あとは仕事で必要な単語を中心に順に覚えていった。
そうして一年、こつこつと金を貯め、知識を溜め、すっかりこの地に馴染んだ星来はここの人達との意思疎通はリアがいなくともできるまでになった。ただ…
「おばあちゃんも喋れるといいんだけどな…」
星来は拾った緑の水晶の所為なのか何なのか、問題はあったものの、言葉を離すことは始めからできていた。しかし、共にこの世界に来た祖母には、こちらの言葉が一切理解できなかった。星来には特に意識はなかったが、祖母と話す時と、リアと話す時では、言葉を使い分けているそうだ。
…頭がこんがらがりそうである。
それはともかく、祖母の年齢を考えると、いくら彼女がまだまだ元気で矍鑠としているとしても、新しい言葉を覚えるのは至難の業だ。だから街に行く時は星来の付き添いが必要だ。しかし祖母は星来の負担となると考えた為か、これまでの常識が覆されることに恐怖した為か、この頃では祖母は殆ど家から出なくなってしまった。それが不憫でならない。
「あ、ねえ、今日家に寄ってかない? おばあちゃんが薬草作ったから取りに来てほしいって。ついでに夕食もご馳走するわよ」
「喜んで」
星来はここに来た当初は、日々の糧を得る為に一日中身を粉にして働いた。そうしなければ生きていけなかった。簡単な掃除だけでは二人で食べていくだけの給金は得られず、リアに援助を受けながらも夜間の仕事も引き受けていた時期もあった。
少しずつ楽になってきた頃には既にこの世界に来てから三カ月が経っていた。
その頃になると、祖母も元々の職である薬師の本領を存分に発揮できるようになっていた。こちらで購入した薬草本を参考に、あちらの世界と似た効用を持つ薬草を基にして薬を作っている。今でこそ中々斬新な薬と評判となり、依頼もされるようになり薬師の収入も家計の一助となっているが、植生も種類も全く違うこの世界の薬草を試しては失敗を繰り返し、代償として家の中が異様な臭いに包まれて、暫く外で食事をとった時期もあったことは苦い思い出である。
その他に数冊借りて図書館を後にすると、二人は次に協会に向かった。何か新しい依頼が来ていないか物色する為に。
「……またデルちゃんの捜索願が出されてるわ」
「引き受けてやればいい。危険もないし金払いはいいんだから」
「既に三度受けてるっての。流石に飽きるわ」
当初魔法を当然のように使うリアを見て、他の人々も普通に魔法を使って、文明も文化も何でもかんでも魔法に頼った世界であると思っていた。ところがどっこい、蓋を開けてみると、瞬間移動なんて無理だし、空飛ぶ絨毯もない、透明人間にはなれても壁をすり抜けるなんて無理無理。皆が皆魔法を使えなるわけでないから、指先を振ってかまどに火を熾す人の隣で、火打石で煙草に火を点ける人がいた。
元の世界よりもずっと発展した部分もあれば、酷くアナログな部分もある、そんな先進的なものと古典的なものが矛盾なく存在した世界だった。
この世界でいう魔法とは、四代元素である火、水、土、風の他に、光や闇の主に六つの力を行使する能力の総称をいう。運動が得意な人とそうでない人がいるように、魔法にも人によって得手不得手がある。とはいえ使えない人は使える人に劣るのかといえばそうではなく、魔法が使えないなりに便利な道具を発展させて、その技術は時に魔法が得意な人よりも重宝されていたりする。星来達が所属している“協会”には、魔法に特化した人や者を作り出す技術者の選りすぐりがわんさかといる。彼らは難しい任務をこなして報酬を貰う。協会はあちらでいうギルドのようなものだ。
どれを選ぼうが個人の自由だが、やはり身の丈にあったモノを選ばないと、失敗する危険が高くなるし、そうなると評価を得られず、報酬も勿論なし。評価が高いと個人的に依頼が入ることもある。協会が掲示する仕事よりもずっと高額報酬を得られるし、協会に報酬の一部を支払う必要もないし、もっと高名になれば協会を出て自立することも夢ではない。
こういった利点がある為、組員は殊の他己の評判を気にする。それが行き過ぎて、ライバル同士の蹴落とし合いが頻発するわ、名が売れている者の足を引っ張るのは当たり前だわ、新人潰しはもはや挨拶代わりだわで、社会の世知辛さは向こうの世界と何ら変わらない。
全く何処の世界でもせこい奴はいるし、就職難だし、新人潰しの被害もばっちり受けた。
魔法が生活に密着しているようなファンタジーな世界なのにも拘らず、想像していたようなふわふわでメルヘンな可愛らしさが欠片もない。
妖精や幻獣がいるくせに、犯罪や労働者のストライキなんて言う俗っぽいものがある。やはり命あるものが暮らす場では争いが無くなることはないのだろう。ちょっとがっかりである。
そしてもっと気に食わないのは、未だに星来達が何故異世界に(家と一緒に)飛ばされならなかったのかが分からないことだ。
星来には学校があったし、友達もいたし、祖母だって仕事があった。身内は祖母以外いないも同然だったから遺産云々はいいとして、あちらでやることは一杯あった。捜索願は出されるとしたら近所のおばちゃんか、心配性の友達か…いずれにしても家ごと消えるなんて警察沙汰になることは必至だ。中学校は義務教育だから退学扱いにはならないだろうけれど、本来なら今年卒業の筈なのにできないわけで…つまりこのままだと私の学歴は小卒で終わる…あれ、え、うそ。それってやばいんじゃないの? 小卒で雇ってくれる所なんかないじゃない…
…それはともかく。
帰る方法は見つかっていないが、見つかったとして、実際に帰れたとしても、元の生活に戻るのは難しいだろうと思う。向こうの世界でも魔法がそのまま使えるのかどうかに興味はあるが、実のところ、向こうの世界に差して未練はない。連載中の漫画の続きが気になるくらいである。だから、こうして安定した生活を得られた今では、どうしても帰りたい衝動はなくなっていた。
ただ、こんな非現実的な事態に陥ってしまったのは、何らかの理由がなければ到底納得できない。相応の理由がほしいのだ。言葉や生活といった生きる上で必要な苦労を、何の理由もなく課せられたなんて理不尽すぎる。明日を無事に暮らせるか分からない不安を、無意味に味わわされたとしたら…憤懣やるかたないが、怒りのぶつける先もない。
よく漫画ある異世界や時代のトリップものは、飛ばされて早々に使命を言い渡されたり、運命的な出会いに遭遇することが常だ。実際に起こることと、作者が都合よく作り上げる物語りが正しく一致するとは思っていないが、少なくとも漫画の世界は飛ばされた理由に見当をつけられる分、憤りはすれど納得はできる。
でも、私は、態々異世界に来てやってることと言えば、せっせと生活費を稼ぐことだけ…
傲慢な依頼主や協会のお偉いさんとガンつけ合う日々…
何してんだろう、自分。
脱力感が肩に重くのしかかった。
「……何ださっきから溜息ばっかり吐いて。まだ機嫌が治らないのか」
はっとするとリアの顔が間近にあった。無意識に隣のリアを睨みつけるように見つめていたらしい。
「…別に」
そのまま答えない星来に何を思ったか、リアは星来の頭を撫でると星来の荷物を奪って歩き出した。
「しょうがねえな。夕飯はお前のばあさんも一緒に奢ってやるよ。たまには街に出るのもいいだろ」
その言葉に感謝したくなったが、星来は不機嫌な顔を止めなかった。
「お肉が食べたいわ。こないだ食べたお肉くらい上等なやつね」
「おまっ……はあ、俺はお前の財布じゃないんだがな…」
何だかんだ言いつつも了承するから、星来はリアに駄々をこねる。
苦労と苦渋の日常は、異世界に飛ぶという異常事態と割に合わないが、リアに会えたことで半分…いや三割程は埋め合わされたかもしれない。…三割だけね。
お知らせ
少し前から他サイト様の方でのんびり連載していたりしてます。
詳細は活動報告にて。