2.森での邂逅
「おばあちゃん、どうしよう?」
「あたしに言われてもねぇ」
取りあえず緊急家族会議を開いてはみたが、議員二人ではなかなか良案は浮かばない。
「どうしたもんかねぇ。星ちゃんこそ、何か心当たりはないのかい?」
「えぇ…私何もしてないよ?」
星来達は二日かけて家の中の点検と周囲の安全を確認した。そして分かったことは外は本物の森だった。紛うことなき森林だった。規模がどれくらいあるのか分からないが、森だった。くどいようだが森だった。
後ろがベニヤ板だったら笑って済ませられたのに。
「家ごとどっかの森に移動するとか、現実的じゃないでしょ」
「でも、夢じゃあないみたいだよ」
「だよね…二人揃って同じ夢を見てる訳でもないし」
祖母と孫が頭を捻っても、どういう理屈で家が飛ばされたのか分からない。
例えば竜巻のような自然の力で飛ばされたとすると、家も中の家具も無事では済まないからこの仮定は却下だ。
次に、誰かが、何らかの目的があって家を移動させたとする。だが、たった一晩でどうやって家を動かしたのか。家の中にいた星来達が気付かないわけが…それに御近所さんも音とかで気付く筈…。
駄目だ。やっぱり何も分からない。そんな時は…
「やっぱり…誰か人を探さないといけないねぇ」
結局ふりだしに戻った。分からない時は人に聞くのが一番だ。見える範囲に民家はないが、少し歩けば一件や二件あるかもしれない。とにかくここの地の住人に話しを聞かなければ、事態は改善しないままだ。
意味も分からぬままやってきてしまった土地にはどんな人がいるのか…。結構な不安要素は残るが、仕方ない。
祖母はあまり歩けないので、星来がその役目を担うのは当然の成り行きだ。星来は昨日までの大雑把な偵察とは違い、完全防備で臨んだ。小学校の頃の理科の授業で教材用に貰ったコンパスをリュックに入れ、おばあちゃんに誕生日に買ってもらった腕時計を腕に嵌め、護身用にと折り畳み式のフルーツナイフを台所から失敬し、靴もハイキング用のゴツイ物を履き、虫刺され防止にスプレーを全身に噴きかけた後、長袖の上着に袖を通し、熊等の獣避けにと昔近所の神社で買った量産の鈴を腰に結び付けた。
「…よし」
仕上げに雑貨屋で買った千円サングラスをかけて、星来はすっくと立ち上がった。
これから自分達の生活がどうなるのかと祖母は心配していたが、星来は迫りくる見知らぬ森の探検に心が浮足立っていた。近くの薬草採りに行く山は既に自分に庭同然になっていた為、新しい発見に飢えていた所為もある。
家を出た星来は、幼い頃道路に落書きする時に使っていた橙色の煉瓦の欠片で木に×を付けながら歩いてみた。
時計の長針が一周回った頃、星来は足を止めて周囲を観察した。少々巨木が目立つようになってきた以外は、森の景色は相変わらずで、星来はこの森は結構大きいんじゃないかと推察した。
大きな森なら、村なり集落なりがある可能性大よね。
星来は希望を見出した。まだ民家一つ見つけられていないが、ある過疎地では隣の家まで四時間かかると何処かで聞いた覚えがある。ならあと二、三時間歩けば、運が良ければ今日中に誰かと出会えるかもしれない。
「あと二、三日はご飯には困らないけど…冷蔵庫も使えなくなっちゃったし、早めにスーパーの場所聞かないと」
星来達は家ごと飛ばされた。つまり家電もそのまま漏れなくついてきたということ。だが、電力や水を引き出すパイプまではついてきてくれなかった。おばあちゃんが水を出そうとして出なかったことを初めとして、エアコン、テレビに洗濯機、それからその他諸々の電化製品もうんともすんとも言わなくなった。コンセントと繋がったコネクタも、配線が途絶えてしまえばただのゴム紐。ご飯も炊けないだなんて、何とも中途半端に移動してしまったものだ。
いや、あわや野宿する羽目になる可能性もあったことを思えば、屋根と壁があるだけマシだろうか。
「……何の音?」
散策を再開して間もなく、何やら草を踏む音が聞こえた。深い森なので狸や鹿がいても不思議ではない。もしかしたら兎やリスかもしれない。可愛い小動物を拝めるかもと好奇心が頭を擡げた。
だがそんな余裕も五秒で消え去った。
がさりと草を掻き分けて現れたのは見たこともない巨大な獣だった。
「…え?」
熊とか猪とか分かりやすい猛獣ですらない。テレビでさえ見たことのない、怪物だった。星来は驚きすぎて声を詰まらせた為に叫ぶことも出来なかった。だが、それは幸いだった。まだ向こうはこちらに気付いていないようだった。怪物に比べ星来は小さすぎて、視界に入らないのだろう。
ゆっくりゆっくりと獣は歩いてくる。このまま気付かないまま通り過ぎてほしい。星来は腰に付けていた鈴を握りしめて音を殺しながら、星来も獣の歩調に合わせてゆっくりゆっくりと後退しようとした。
しかし、星来の足がぱきっとイイ音を立てて枯れ枝を折ってしまった。
当然、怪物は反応した。
「……っ」
うそん……私の馬鹿。
この怪物の脚力が如何ほどかは分からないが、とにかく三十六計逃げるに如かずだ。一か八かをかけて星来は身を翻して全力で逃げた。
星来を確認した怪物が木を薙ぎ倒しながら追ってきた。ただの力任せの体当たりで巨木がポッキーの様に容易く折れる様は異様だった。恐怖と逃走の為に星来の心臓はすぐにはち切れそうな程に跳ね上がる。足の震えも止まらない。けれどここで転びでもしたら星来の人生はそこで終わる。
怪物との追いかけっこは、時間にして僅か数十秒だったが、これまで生きてきた中で一番長い数十秒だった。星来は転びはしなかったものの、怪物は容易く星来に追いついた。涎が垂れた口元から覗く大きな牙を間近に見た時にはもう駄目だと思った。
こんな毛むくじゃらに、人生の幕を下ろされるなんて…!
頭の中だけは威勢よく怪物を罵りながら、最期を悟って目を瞑った。
「………」
数秒、経った。
いっこうに星来のやわ肌に牙は突き立てられない。そろそろと目を開けてみると、倒れ伏した怪物の顔が眼前にあった。
「……ぅきゃっ!」
ぎょっとして跳び上がった。舌をだらりと垂らして地に伏していてもまだ星来より大きい。口から覗く星来の身長ほどもある牙に、改めて寒気がした。
本当に死んだかどうかまだ実感が湧かず、怪物を数歩離れた場所から怪物を眺めていると、怪物の胴体の位置に誰かがいた。さっきまで確かに誰もいなかった筈なのに、いつの間に…と思いじっと見つめると、星来の視線に気付いたのかその誰かもこちらを向いた。
それは、年恰好は星来とそれほど変わらないだろう少年だった。
髪の色は今時珍しくもない茶髪だが、ひどく印象的な藍色の瞳をもった少年。さぞ女にモテるだろう、美しい容貌をしていたから尚更、藍色が色気のある哀愁を漂わせ、魅力的に映った。
この時点の星来は、九死に一生を得た直後だった為、そう彼の容姿を評価したのは、少し後のことだったけれど。今はただ、人に会えた喜びで一杯だった。
外人かしら。言葉、通じるかな。
その少年は星来を怪訝そうに見つめ返してくるので、こちらから声をかけてみた。
「貴方が…この怪物をやっつけてくれたの?」
「…は?」
は? って何よ。は? て。星来は怪物を指差した。
「だから、この怪物。倒れてるけど、貴方がやっつけてくれたの? って聞いてるんだけど」
「………」
少年は一瞬考えるそぶりを見せたが、頷いた。
「まあ…そういうことでいい」
妙な返答だが、まあいい。
「やっぱり。助けてくれてありがとう。死ぬとこだったわ」
星来は逃げている間についた葉を払いながら礼を述べた。
「…なあ、何でこんな所にそんな恰好でいるんだ?」
身繕いに忙しい星来に、今度は少年の方から話しかけてきた。
「え? そんなの私が聞きた…あ、そうだ」
訊ねられて思い出した。星来の目的は地元民に会ってここは何処か訊ねること。丁度いい。この少年に村や街の場所を訊ねよう。
「私、柊 星来っていうの。星来でいいわ。貴方は?」
「…リア=クロウ・リトルデ」
やっぱり外国の人だ。言葉がすんなり通じるところを見るとこっちでの暮らしは長いのだろう。
「クロウリトルデって姓名なの? 長いわね」
「リア=クロウで一つの名前だ。リトルデが姓」
「じゃあ、リア=クロウ君ね」
「長ぇよ。リアでいい」
「ふぅん、分かった。ねえ、ここって何処の森なの? 何県? この怪物ってもしかして未確認生物のレア物だったりする?」
リアは不審そうな目から不思議そうな目に変わった。
「……迷子か?」
「この歳になって、すんなり頷きたくないんだけど、間違ってないかもね」
「ここはジュラムだぞ。何も知らない子供がふらふら歩いていい場所じゃない。街まで連れて行ってやるから早く家に帰れ」
「…悪いけど、まずジュラムって何かから説明して頂戴」
リアとの出会いは、まず星来の認識の補正から始まった。