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十年分の献立を書き置いて参ります~あなたが「家事くらい誰でもできる」とおっしゃったので~  作者: 秋月 もみじ


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第9話 あの保存食はあの方の技術です


 領主会議の議場に、冬の冷気よりも冷たい空気が満ちていた。


 一月。厳冬。周辺領主が年に二度集まる領主会議の冬季開催。ベルガー伯爵領の議場には各領主と代理人が並び、王家の監察官が奥の席に座っている。


 私は傍聴席にいた。ブラント男爵領の当主代理として。父は病床から委任状を書いてくれた。


「次の議題。ヴァルトシュタイン子爵領の食料事情について」


 議長の声が響いた。


 ディートリヒが立ち上がった。外見は整えている。社交の顔を被っている。けれど声に、あの滑らかさが戻りきっていなかった。どこか掠れている。


「冬季の食料備蓄に一部不足が生じております。領民への配給に支障が出ておりますが、現在対応中で——」


「対応とは具体的に何か」


 監察官の声が遮った。乾いた、事務的な声。


「原因の報告を求めます」


 ディートリヒの声が一瞬止まった。次に出てきた言葉に、私は耳を疑った。


「……元妻が、保存食の技術を持ち出しました。あの技術は本来、ヴァルトシュタイン家の知的財産であり——」


(持ち出した?)


 持ち出してなどいない。十二冊の献立表を書き残した。あの屋敷に知識を置いてきた。文字にできない部分——暗黙知——は最初から私の頭と手の中にある。それは私のものだ。


 拳を握りかけた時、別の声が上がった。


「発言を許されたい」


 クラウスだった。


 立ち上がった彼の顔は平静だった。声は——いつもの素っ気なさではなく、一段低い、腹の底から出す声だった。


「ベルガー伯爵領農政官、クラウス・ベルガー。発言は許可されている」


 議長が頷いた。ベルガー伯爵がその後ろで小さく目配せした。——事前に話を通してある。


「子爵殿は『技術を持ち出された』とおっしゃいましたが、事実と異なります」


 クラウスの声が議場を貫いた。


「あの保存食技術は全て奥方——」


 一瞬、声が途切れた。


「——いえ、イレーネ殿の技術です」


 呼び名を直した。その一瞬の躊躇いに、何かが透けて見えた。公の場で名を呼ぶ重さを、この人は知っている。


「五年前の領主会議で、ヴァルトシュタイン子爵領の保存食を確認しております。封蝋の精度、瓶詰めの密閉技術、保存期間の計算——いずれも個人の高度な技能に基づくものであり、文書化して引き継げる性質の知識ではありません」


「根拠は」


 監察官が問うた。


「私は農政官として各領地の食料生産を分析する立場にあります。あの品質の保存食を生産する技術者を、他に知りません。また、子爵殿は領地経営の実務——帳簿の管理、食材の仕入れ、保存食の仕込み時期——について、ご自身では一切関与されていなかったはずです」


 ディートリヒの顔色が変わった。


「それは——」


「私もクラウス農政官の見解を支持する」


 ベルガー伯爵が立ち上がった。白髪の壮年。議場の中で最も高い爵位を持つ人物。


「五年前の領主会議で、あの保存食の品質を私自身が確認している。あれは領地の産物ではなく、特定の技術者の成果物だ。子爵殿が技術を『持ち出された』と主張するのは、帰属の誤認と言わざるを得ない」


 議場がざわめいた。


 ディートリヒが何か言おうとした。唇が動く。音にならない。社交の顔が、ひび割れるように崩れていく。


 監察官がペンを走らせた。


「ヴァルトシュタイン子爵領に対し、領地経営の実態調査を行う。王命として命じる」


 冷静な、事務的な一行。その一行が、ディートリヒの社交界での虚像を砕いた。



 ◇



 議場の廊下で、ディートリヒとすれ違った。


「イレーネ」


 声が乾いていた。かつての朗々とした響きはどこにもない。


「……戻ってきてくれないか」


「今更、お話しすることなどございません」


 一礼して、背を向けた。



 ◇



 議場の外は雪だった。


 白い息を吐きながら階段を降りると、クラウスが立っていた。外套に雪が積もっている。


「迷惑をかけたか」


「——え?」


「子爵を相手にあんなことを言えば、俺の立場も面倒になる。それは承知の上だったが——お前に迷惑がかかるなら」


 お前、と言った。


 今まで「イレーネ殿」だったのに。公式の場では言い直す丁寧さがあるのに、二人きりだと距離の取り方がわからなくなる。


「……迷惑なんて」


 声が震えた。


 泣くつもりはなかった。でも目の奥が熱くて、止められなかった。


「……ありがとう、ございます」


 たった一言。


 十年間、誰にも言ってもらえなかった言葉。「あなたの技術です」——それだけのことを、公の場で、社会的リスクを負って言ってくれた人がいる。


 クラウスは何も言わなかった。ただ自分の外套を脱いで、私の肩にかけた。


 今度は途中でやめなかった。

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