表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十年分の献立を書き置いて参ります~あなたが「家事くらい誰でもできる」とおっしゃったので~  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話 帰ってくれと言う人


 門番のフリッツが息を切らせて駆け込んできた時、私の手には仕込み途中の蕪があった。


「お嬢様、お客様が——ヴァルトシュタイン子爵殿が——」


 包丁を置いた。手を拭いた。エプロンを外した。


 三つの動作を、ゆっくりと。慌てる理由はない。いつか来ると思っていた。



 ◇



 応接間は小さいが、この三ヶ月で私が整えた空間だ。壁には母の刺繍が飾ってある。テーブルには自分で淹れたお茶。


 ディートリヒが向かいに座っていた。


 三ヶ月ぶりに見る元夫の顔は、少しやつれていた。社交界の顔が剥がれかけている。あの滑らかな声に、焦りが混じっている。——十年前、私はこの声に惹かれた。あの頃の自信に満ちた響きは、もうどこにもない。


「イレーネ。帰ってきてくれ」


「……」


「屋敷が回らない。保存食の仕込みは失敗した。領民祭の料理も出せなかった。交易商も保存食が途絶えたと嘆いている。君なしでは——」


「私なしでは、屋敷が回らない」


 静かに繰り返した。


「あなたが『家事くらい誰でもできる』とおっしゃったのは、九月のことでしたね」


 ディートリヒの声が途切れた。


「十年分の献立表を書き残しました。手順も、食材の仕入れ先も、仕込みの温度も、全て書きました。『誰でもできる』のでしたら、あれで十分のはずです」


「それは——」


「十分ではなかったのですか?」


 お茶が冷めていく。ディートリヒは一口も飲まなかった。


「イレーネ。離縁は——離縁の無効を申請する。あの申請は不当だ。俺は——」


「日記を」


 私は引き出しから一冊の日記帳を取り出した。


「三年と数ヶ月分の記録です。毎日、同じ三行。天気、献立、そしてあなたが私の寝室に来なかったこと。証人はマルタとフリッツ。領主裁判所の要件は全て満たしています。異議申し立て期間も既に終了し、離縁は正式に成立済みです」


 日記を開いてテーブルに置いた。


 ディートリヒの目が文字を追った。整然と並ぶ三行の記録。一日も欠かさない、一千以上の日付。


 声が消えた。


 三秒。五秒。この人が声を失ったのを、私は初めて見た。


「……これを、ずっと書いていたのか」


「ええ。毎晩。あなたの足音が廊下を通り過ぎていくのを聞きながら」



 ◇



 応接間の外で、声が聞こえた。


「彼女に用があるなら、まず俺に話してもらおうか」


 クラウスだった。


 門の前に立っていた。ディートリヒより頭一つ高い。日に焼けた顔が、今は硬い。


「何者だ」


「ベルガー伯爵領の農政官、クラウス・ベルガーです。ブラント男爵領の農地再生に関わっている」


「農政官が、なぜここに——」


「畑の様子を見に来た」


 嘘だ。畑の様子を見に来ただけなら、門の前に立って子爵と対峙する理由がない。


 ——先月の朝、見た。暗い中を水桶を提げて畑に来る後ろ姿を。あの人は理由を言わない。行動だけが、全てを語る。


 ディートリヒの目が細くなった。


「貴様、元妻と不義を——」


「離縁は成立している。あなたにイレーネ殿に関わる権限はない」


 クラウスの声は低かった。怒鳴るのではなく、低くなる。それが、この人の本気なのだと——もう知っている。


 ディートリヒは一歩退いた。社交の場ではない。力で押す気もない。退くしかなかった。


「覚えておけ。あの農政官と不義を働いていると、社交界に広めてやる」


 捨て台詞を残して、馬車に乗り込んだ。車輪が砂利を巻き上げて去っていく。


 静かになった。


 クラウスがこちらを向いた。


「……大丈夫だったか」


「なぜ来てくれたのですか」


「畑の様子を見に来ただけだ」


 同じ嘘を、二度目。


 以前の私なら、そこで会話を閉じた。「そうですか」と微笑んで、距離を保って。


 でも今日は、少しだけ違うことを言った。


「——毎朝の水桶も、畑の様子を見に来たついでですか」


 クラウスの目が一瞬だけ広がった。知られていたのか、という顔。


 答えはなかった。ただ、耳の先がわずかに赤くなったのを、私は見逃さなかった。


(この人を巻き込んではいけない)


 社交界に噂を広められたら、クラウスの立場が危うくなる。平民出身の農政官が子爵を敵に回すのは、賢い選択ではない。


 距離を置くべきだ。この人のために。


 ——でも。


(この人は、私が距離を置いても、水を運んでくる人だ)


 それがわかってしまったことが、何よりも怖くて、何よりも温かかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ