第8話 帰ってくれと言う人
門番のフリッツが息を切らせて駆け込んできた時、私の手には仕込み途中の蕪があった。
「お嬢様、お客様が——ヴァルトシュタイン子爵殿が——」
包丁を置いた。手を拭いた。エプロンを外した。
三つの動作を、ゆっくりと。慌てる理由はない。いつか来ると思っていた。
◇
応接間は小さいが、この三ヶ月で私が整えた空間だ。壁には母の刺繍が飾ってある。テーブルには自分で淹れたお茶。
ディートリヒが向かいに座っていた。
三ヶ月ぶりに見る元夫の顔は、少しやつれていた。社交界の顔が剥がれかけている。あの滑らかな声に、焦りが混じっている。——十年前、私はこの声に惹かれた。あの頃の自信に満ちた響きは、もうどこにもない。
「イレーネ。帰ってきてくれ」
「……」
「屋敷が回らない。保存食の仕込みは失敗した。領民祭の料理も出せなかった。交易商も保存食が途絶えたと嘆いている。君なしでは——」
「私なしでは、屋敷が回らない」
静かに繰り返した。
「あなたが『家事くらい誰でもできる』とおっしゃったのは、九月のことでしたね」
ディートリヒの声が途切れた。
「十年分の献立表を書き残しました。手順も、食材の仕入れ先も、仕込みの温度も、全て書きました。『誰でもできる』のでしたら、あれで十分のはずです」
「それは——」
「十分ではなかったのですか?」
お茶が冷めていく。ディートリヒは一口も飲まなかった。
「イレーネ。離縁は——離縁の無効を申請する。あの申請は不当だ。俺は——」
「日記を」
私は引き出しから一冊の日記帳を取り出した。
「三年と数ヶ月分の記録です。毎日、同じ三行。天気、献立、そしてあなたが私の寝室に来なかったこと。証人はマルタとフリッツ。領主裁判所の要件は全て満たしています。異議申し立て期間も既に終了し、離縁は正式に成立済みです」
日記を開いてテーブルに置いた。
ディートリヒの目が文字を追った。整然と並ぶ三行の記録。一日も欠かさない、一千以上の日付。
声が消えた。
三秒。五秒。この人が声を失ったのを、私は初めて見た。
「……これを、ずっと書いていたのか」
「ええ。毎晩。あなたの足音が廊下を通り過ぎていくのを聞きながら」
◇
応接間の外で、声が聞こえた。
「彼女に用があるなら、まず俺に話してもらおうか」
クラウスだった。
門の前に立っていた。ディートリヒより頭一つ高い。日に焼けた顔が、今は硬い。
「何者だ」
「ベルガー伯爵領の農政官、クラウス・ベルガーです。ブラント男爵領の農地再生に関わっている」
「農政官が、なぜここに——」
「畑の様子を見に来た」
嘘だ。畑の様子を見に来ただけなら、門の前に立って子爵と対峙する理由がない。
——先月の朝、見た。暗い中を水桶を提げて畑に来る後ろ姿を。あの人は理由を言わない。行動だけが、全てを語る。
ディートリヒの目が細くなった。
「貴様、元妻と不義を——」
「離縁は成立している。あなたにイレーネ殿に関わる権限はない」
クラウスの声は低かった。怒鳴るのではなく、低くなる。それが、この人の本気なのだと——もう知っている。
ディートリヒは一歩退いた。社交の場ではない。力で押す気もない。退くしかなかった。
「覚えておけ。あの農政官と不義を働いていると、社交界に広めてやる」
捨て台詞を残して、馬車に乗り込んだ。車輪が砂利を巻き上げて去っていく。
静かになった。
クラウスがこちらを向いた。
「……大丈夫だったか」
「なぜ来てくれたのですか」
「畑の様子を見に来ただけだ」
同じ嘘を、二度目。
以前の私なら、そこで会話を閉じた。「そうですか」と微笑んで、距離を保って。
でも今日は、少しだけ違うことを言った。
「——毎朝の水桶も、畑の様子を見に来たついでですか」
クラウスの目が一瞬だけ広がった。知られていたのか、という顔。
答えはなかった。ただ、耳の先がわずかに赤くなったのを、私は見逃さなかった。
(この人を巻き込んではいけない)
社交界に噂を広められたら、クラウスの立場が危うくなる。平民出身の農政官が子爵を敵に回すのは、賢い選択ではない。
距離を置くべきだ。この人のために。
——でも。
(この人は、私が距離を置いても、水を運んでくる人だ)
それがわかってしまったことが、何よりも怖くて、何よりも温かかった。




