第7話 水を運ぶ人
水桶に薄い氷が張っていた。
十一月の朝は暗い。日が昇る前に畑に出ると、もう水桶が置いてある。井戸から畑まではかなりの距離がある。この寒さの中、誰かが毎朝ここまで運んでくれている。
九月の終わりから、もう五十日以上になる。
最初は庭師のヨハンだと思っていた。聞いたら「私ではございません」と首を傾げられた。
(——もう、ごまかしようがない)
翌朝、いつもより早く家を出た。暗い道を畑まで歩く。指先が痛いほど冷たい。
畑の入口に、影が一つ。
大きな背中。両手に水桶を提げて、静かに地面に置いている。外套の肩に霜が降りている。
クラウスだった。
毎朝。一ヶ月半。何も言わずに。
声をかけようとして、足が止まった。
彼は水桶を置くと、畑を一度だけ見渡した。苗の育ち具合を、暗い中で目を凝らして確認している。それからゆっくりと、来た道を戻り始めた。
——追いかけなかった。
追いかけたら何を言えばいいのかわからなかった。「ありがとう」では足りない。「なぜ」と聞いたら、きっとあの人は「畑に水が必要だから」と素っ気なく答える。それが嘘だと、もうわかっている。
わかっているのに、認めるのが怖い。
また信じてもいいのか。また誰かを信じて、また十年後に「誰でもできる」と言われるのではないか。
屋敷に戻って、窓から畑を見た。水桶が二つ、朝日を受けて小さく光っていた。
◇
昼にアンナが訪ねてきた。
「保存食、準備できてる? 今日、市場に持っていくわよ」
蕪の酢漬けと、燻製の根菜チップを瓶詰めにしてある。五十瓶。ブラント印の封蝋を施して。
「ところでイレーネさん」
アンナが瓶を箱に詰めながら、何気なく言った。
「兄があんなに人の話をするのは初めてよ」
「……え?」
「うちの兄、仕事の話しかしない人なのよ。農地の酸度がどうとか、輪作計画がどうとか。それが最近、夕食のたびに『ブラント領の根菜が』『あの土壌が』って」
アンナが笑った。
「——農地の話じゃなくて、農地にいる人の話をしてるのよね、あれ」
(農政官として、隣領の農地に関心があるのだろう)
そう思おうとした。そう思うのが安全だった。
——安全。いつから私は、人の好意を「危険」だと感じるようになったのだろう。
◇
ベルガー伯爵領の市場で、ブラント印の保存食が初めて並んだ。
五十瓶。昼前に、全て売り切れた。
「すごい。噂を聞いて買いに来た人もいたわ。『ヴァルトシュタインの保存食と同じ味がする』って」
同じ味ではない。あの味は私のものだ。ヴァルトシュタインの名前ではなく、ブラントの名前で売れた。
私の技術が、認められた。
帰り道、アンナが「売上金」と書かれた袋を渡してくれた。ずっしりと重い。銀貨にして二十枚以上。嫁入り支度金を除けば、離縁後に自分の力で得た初めての収入だ。
「ありがとう、アンナ」
「お礼は兄に言ってよ。市場の卸先を全部段取ったの、あの人だから」
——また、あの人だ。
◇
その夜——
ヴァルトシュタイン子爵邸の客間で、リゼットが暖炉の前に座っていた。
「ディートリヒ様。王都のヘーゲル伯爵の夜会に招待されたのですけれど、参りませんこと?」
「……今はそれどころではない。保存食の在庫が——」
「保存食、保存食って。もうその話は聞き飽きましたわ」
リゼットの声が尖った。可憐な令嬢の仮面の下から、地の声が覗く。
「私、こんな田舎のお屋敷で冬を越すつもりはございませんの。この館には暖炉が少ないし、使用人は不愛想だし、市場は小さいし。そもそも、前の奥方様がいなくなってから、このお屋敷は全然まともに動いていないじゃありませんの」
ディートリヒが暖炉を見つめた。
「……イレーネの時は、こんなことにはならなかった」
「あら。あのインクだらけの手をした地味な方のこと? 家事くらい誰でもできるっておっしゃっていたのは、あなたですわよ」
薪が爆ぜた。リゼットの一言は、三ヶ月前のディートリヒ自身の言葉の正確な反復だった。
交易商のミュラーが面会を求めてきたのは、その直後だった。
「奥方様の保存食は、もう入らないのですか。あの品質の瓶詰めは他にありません。取引量を増やしたいと思っていたのですが」
ディートリヒは答えられなかった。
ミュラーが去り、リゼットが客間から姿を消した後、ディートリヒは一人で書斎に戻った。
十二冊の献立表を本棚から取り出し、一冊目を開いた。
(——俺は、何を捨てたのか)
その問いに答えを出すには、まだ早かった。




