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十年分の献立を書き置いて参ります~あなたが「家事くらい誰でもできる」とおっしゃったので~  作者: 秋月 もみじ


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第6話 雨宿り


 蕪の種類だけで三十七品種を試して、ようやく五つに絞り込んだ。


 この三週間、畑と保存食庫を往復する日々だった。朝は土を触り、昼は瓶詰めの実験をし、夜は母のレシピノートと自分のノートを突き合わせる。ブラント領の寒暖差に最も合う根菜は何か。ヴァルトシュタインとは気候が微妙に違うから、配合を一から調整し直す必要がある。


 地味な作業の繰り返しだ。華やかさは何もない。


 ただ、初めて自分の土地で育てた蕪を掘り上げた時——手のひらにずしりと重みが伝わった時——ああ、これだ、と思った。


 ブラント男爵領の小さな収穫祭は、広場の片隅で開いた。住人は百人ほどしか集まらなかったが、それでも祭りは祭りだ。


 大鍋で蕪のスープを作った。刻んだ蕪と、塩と、少しの油。贅沢な材料はない。でも熱々のスープを受け取った子どもたちの顔を見たとき、胸の奥が温かくなった。


「イレーネ様、この蕪の切り方を教えてくださいませんか」


「保存食って、家でも作れるんですか?」


 村の女たちが集まってきた。


(ああ——これが、したかったことなのかもしれない)


 誰かの屋敷を回すためではなく、この土地の人々のために料理を伝えること。



 ◇



 午後、畑で作業をしていたら空が暗くなった。


 雨粒が一つ、頬に落ちた。


「明日でもできる仕事だ」


 クラウスの声が後ろから聞こえた。いつ来たのかわからない。この人は足音が静かだ。


「苗は雨の後のほうがよく根づく。無理に植えるより、土が水を吸ってからのほうが賢い」


 反論できなかった。正しいことを正しく言う人に対して、意地を張る理由がない。


 近くの納屋に駆け込んだ。古い農具と干し草の匂い。雨が屋根を叩く音が響く。


 二人きりになった。


「先日、市場の商人がここを訪ねてきました」


 何か話さないと落ち着かなくて、そう切り出した。


「ベルガー伯爵領の食料品商、シュタイン氏です。ブラント領の保存食に興味があると。——取引だけでなく、食事もご一緒にいかがかと誘われまして」


 軽い話題のつもりだった。


 クラウスは答えなかった。


 三秒ほど沈黙があった。雨音だけが納屋を叩いている。


「行ったのか」


 声のトーンが変わっていた。落ちた、というのが正確だ。いつもの素っ気ない平坦さではなく、低い、抑えた声。


「いいえ。取引の件だけお聞きしました」


「……そうか」


 それだけ。ただ、視線が一瞬だけ逸れた。干し草の山を見つめている。見つめているふりをしている。


(——何だろう、今の反応は)


 疲れているのだろうか。農政官は忙しい。隣領の畑まで足を運ぶだけでも負担のはずだ。


 それとも——


 いや。考えすぎだ。


 私もその隣に——少し距離を置いて——腰を下ろした。


「寒くないか」


「え?」


「寒くないか、と聞いた」


 上着を脱ぎかけて、やめた。手が途中で止まる。腕を下ろす。


 その一連の動きを、見た。


(距離を保とうとしている。——保とうとしているのに、保てない時がある)


 ディートリヒは距離を詰めるのが上手かった。社交のプロだから。けれどその近さの中に、温もりはなかった。


 この人は距離を保っている。なのに、その距離の中に何かが漏れてくる。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 雨音が強くなった。屋根の隙間から水が一筋、土の床に落ちている。その音だけが、しばらく納屋を満たしていた。



 ◇



 夜、部屋でマルタからの手紙を読んだ。


「奥方様。お屋敷が大変なことになっています。領民祭のお料理が出せませんでした。旦那様は私に『献立表通りにやれ』とおっしゃいますが、同じ味になりません。使用人たちも困り果てております。領民の皆様が『奥方様がいた頃は毎年素晴らしかったのに』と口にするたび、胸が痛みます」


 手紙の端が少しよれていた。一度くしゃくしゃにして、また伸ばして使ったのだろう。書き出しの「奥方様」のインクが微かに滲んでいる。何度も書き直したのだ、この人。


(マルタ……)


 返事を書くべきか迷った。


 帰りたいとは思わない。この畑と、この土地の人々と、この新しい仕事が、今の私の全部だ。でもマルタのことは気にかかる。十年間一緒に厨房に立った人を、置いてきた。


 結局、返事は書かなかった。書けば、繋がりが切れない。繋がりが切れなければ、引き戻される。


 手紙を畳んで、引き出しにしまった。


 明日は新しい配合の試作がある。蕪の酢漬けに蜂蜜を加えたら、どう変わるか。


 考えることは、いくらでもあった。

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