第5話 塩を三つまみ
三週間で十二回、瓶詰めに失敗した。
封蝋の温度が合わない。ブラント領の竈はヴァルトシュタインの竈とは火力が違う。蝋が溶けすぎて密閉が甘くなったり、足りなくて瓶の口に隙間が残ったり。十二本分の瓶と食材を無駄にして、ようやくこの竈の癖を掴んだ。
そして十三本目。
根菜の甘い香りが、母の保存食庫と同じ匂いで満ちた時、思わず手が止まった。
ブラント領の根菜で作った試作の酢漬けが完成した。瓶に詰め、封蝋を施す。蝋の硬さを指先で確かめる。——よし。この硬さなら半年は持つ。
「試食をお願いしたいのですが」
クラウスに声をかけると、彼は無言で瓶を受け取り、蓋を開けた。
一切れ、口に入れる。
咀嚼が止まった。
「……これを」
声が変わっていた。いつもの素っ気ない平坦さが消えて、乾いた驚きが混じっている。
「これを、一人で開発していたのか」
その一言が、胸に刺さった。
十年間。ヴァルトシュタインで保存食を作り続けた十年間。ディートリヒに「おいしい」と言われたことはある。社交界で「子爵領の特産品は評判ですな」と言われたこともある。
「一人でやっていたのか」と驚かれたことは、一度もなかった。
当たり前だと思われていた。十年分の当たり前。
「……母の技術を引き継いだだけです」
「引き継いだだけで、ここまでの精度は出ない」
クラウスはもう一切れ食べて、瓶を光にかざした。
「封蝋の密閉度が高い。空気がほとんど入っていない。これは技術だ」
褒めているのだろうか。声のトーンが変わらないから判断しにくい。ただ目だけが真剣だった。
(この人は——前の夫とは、違う)
ディートリヒなら「素晴らしいね」と言って、翌日には忘れている。この人は味を分析し、封蝋を確認し、技術として評価している。
◇
その頃、ベルガー伯爵領の執務室では——
「部長、来週のブラント男爵領の視察ですが、誰を派遣しますか」
部下のエルンストが書類を持って立っている。
クラウスは視察計画表を見た。ブラント男爵領は本来、別の農政官の担当区域だ。だが——
「俺が行く」
エルンストが眉を上げた。
「また自分で行くんですか。先週も先々週も、ブラント領は部長自ら行ってますよね」
「土壌の状態が特殊だ。経験のある人間が見るべきだろう」
「……はあ。まあ部長がそうおっしゃるなら」
エルンストが出て行った後、クラウスは視察計画表を見つめた。ブラント男爵領の欄に、自分の名前が四週連続で入っている。
——理由は、土壌だ。土壌の確認が必要だ。
それ以外の理由はない。ないはずだ。
◇
午後、クラウスの妹が食材を届けに来た。
「初めまして。兄がいつもお世話になっております。アンナです」
二十五歳。快活な声。ベルガー伯爵領の市場で食料品店を営んでいるという。
「兄から『ブラント領に面白い保存食を作る人がいる』と聞きまして。兄が人のことをそんなに話すなんて珍しくて、もう居ても立ってもいられなくて」
アンナが試作品を味見し、目を輝かせた。
「これ、うちの市場に置けません? 絶対売れますよ」
嬉しかった。技術としてだけでなく、商品として評価されたこと。
嫁入り支度金の返還が、この日ようやく届いた。離縁は異議申し立て期間が過ぎて正式に成立し、法的義務としてディートリヒが支払った。封蝋が雑で、中の金貨を数えたら端数が一枚足りなかった。
(——まあ、いいわ。これだけあれば苗と肥料は買える)
端数の一枚を恨むより、次の保存食の試作に回す時間の方が大事だ。
◇
その頃、ヴァルトシュタイン子爵邸の厨房では——
「違う。違うんだ。この味じゃない」
料理番のマルタが、鍋の前で途方に暮れていた。
献立表を開いている。イレーネが書き残した十二冊のうちの一冊。九月の保存食の仕込み手順。
「塩を三つまみ」
マルタが塩壺に手を入れ、三つまみ取った。
——味が違う。
もう一度。三つまみ。
——まだ違う。
「あの方の手は、私より小さかったんだ……」
マルタが呟いた。
イレーネの「三つまみ」は、イレーネの手の大きさで測った量だ。マルタの手では多すぎる。厨房助手の手ではもっと違う。
献立表には完璧に書いてある。手順も温度も時間も。それを動かす身体——指先の感覚、舌の記憶、十年かけて培った判断力——は、この屋敷から去ってしまった。
マルタは鍋の中身を見つめた。
「——私、手紙を書きます」
厨房助手が顔を上げた。
「ハンスさんが、奥方様にレシピを教えてもらえと——」
「そういう手紙じゃないよ」
マルタの声は静かだった。
便箋を取り出し、ペンを持った。十年間一緒に厨房に立った人への、正直な手紙を。
鍋の中の保存食は、塩辛かった。




