第4話 母の台所
掘り返した土が、爪の間に入り込んで取れない。
畑仕事を始めて二週間。手は荒れ、指先はひび割れ、背中は朝から晩まで痛い。ヴァルトシュタインでは保存食の仕込みで手が荒れることはあったが、あれは厨房の中での作業だ。畑に膝をつき、鍬を振り、石を拾い、排水溝を掘り直す——こんな仕事を一人でやるのは初めてだった。
(十年間、他人の屋敷を回していただけだ)
その考えが、不意に頭をよぎる。
保存食は作れる。献立は設計できる。帳簿も読める。でもそれは全て、整った厨房と、マルタと、食材の仕入れ先があっての話だ。
ここには何もない。厨房には竈が一つ、鍋が一つ。畑は荒れ放題。使用人は四人しかいないし、全員が父の看病で手一杯だ。嫁入り支度金の返還はまだ届かない——離縁の異議申し立て期間が終わるまで二十日、正式成立からさらに手続き、ディートリヒの性格を考えれば一ヶ月は遅れる。
手元にある金は、実家に残っていたわずかな蓄えだけ。苗も肥料も買えない。
(私は——自分一人で、何ができるのだろう)
鍬を杖代わりにして、荒れた畑を見渡した。雑草と石だらけの土地が、果てしなく広く見える。
こういう時、ヴァルトシュタインなら帳簿を開いて計画を立てた。予算を見て、仕入れ先を回って、使用人に指示を出して。全てに手順があり、全てに仕組みがあった。
ここでは私が手順そのものだ。誰も指示を出してくれない。
膝の泥を払って立ち上がった。泣き言を言っている暇はない。——でも不安は、消えない。
「苗の植え方を見せよう」
クラウスが来たのは、そんな日の午後だった。二週間ぶりだ。
根菜の苗を等間隔に並べ、土を寄せる。彼が手本を見せ、私が隣で真似る。
「もう少し深く。根が横に伸びるから、指二本分は余裕を持たせる」
そう言って、私の隣にしゃがんだ。苗に土をかぶせる手が、一瞬だけ私の指先に触れた。
クラウスの手が、半拍だけ止まった。
何も言わず、次の苗に移った。私も何も言わなかった。
昼になって、パンとチーズの簡素な食事を畑の端で取った。
「もう少し食材があれば、何か作れるのですけれど」
「これで十分だ」
短く言って、パンを千切った。最後のひとかけまで残さず食べた。
ディートリヒは食卓で必ず何かを語った。社交界の噂、自分の人脈。言葉の多い人だった。そのどれ一つとして、私の料理への感想はなかった。
クラウスは何も言わない。そのかわり、全部食べる。
同じ「無言」なのに、温度がまるで違う。
◇
午後、保存食庫の奥を整理していたら、埃をかぶった木箱が出てきた。
開けると、紙の束。
母のレシピノート。
丁寧な筆跡で、保存食の配合から仕込みの手順、失敗した記録まで、全てが書かれていた。ページの端に小さなメモがある。
「この土地の根菜は、王都のどの食材よりも甘い。寒暖差が味を作る」
指先で文字をなぞった。
母は私が十二の時に亡くなった。保存食の技術は母から教わり、婚家で十年かけて磨いた。原点はここにある。この土地の、この気候の、この恵みの中に。
木箱の底に、もう一枚。
「イレーネへ。困ったときはこの台所に帰っておいで」
——母の字だった。
いつ書いたのかもわからない。でもこの一行を読んだ瞬間、朝からずっと胸に詰まっていた不安がふっと緩んだ。
涙は出なかった。もう泣くのは終わりにしたから。代わりに、ノートを胸に抱えて目を閉じた。
(お母様。私、帰ってきた。何もないけど、この手と、あなたのノートがある。それだけで、始められる)
保存食庫の埃っぽい空気の中で、長い息を吐いた。
◇
翌朝、畑に出ると水桶が置いてあった。
井戸から汲んだばかりの、冷たい水。朝露がまだ桶の縁に残っている。
(誰が運んだのだろう)
庭師のヨハンかもしれない。使用人は少ないが、気の利く人だ。
水桶を横に、苗に水をやった。冷たい水が土に染み込んでいく。
この畑で、母と同じ根菜を育てる。母と同じ保存食を作る。
でも、同じものを作るのではない。母の知恵を土台に、私の十年を重ねる。あの十年は無駄ではなかった。他人の屋敷を回していただけ——さっきはそう思った。でも違う。あの十年で磨いた技術は、全て私の中にある。
それだけあれば、始められる。




