第3話 五年ぶりの土
五年ぶりに踏んだ実家の土は、驚くほど硬くなっていた。
馬車を降りて、まず靴底が感じたのはその固さだった。かつて母が丹精した畑は雑草に覆われ、柵は朽ちかけ、井戸の滑車は錆びて動かなくなっていた。
ブラント男爵領。人口八百の小さな領地。私が生まれ育ち、十八で嫁いで以来、帰れなかった場所。
「お嬢様——」
老執事のフリッツが玄関先に立っていた。背中が五年前より丸くなっている。白髪が増えた。
「ただいま、フリッツ」
「——おかえりなさいませ」
声が震えていた。ハンスの「お気をつけて」とは全く違う。この人の声には、十年分の心配が滲んでいた。
父の寝室は二階の奥にあった。
「イレーネか」
エーリヒ・フォン・ブラント。ブラント男爵。五十八歳。慢性の呼吸器疾患で、五年間をこの部屋で過ごしている。
「帰ってきたのか」
「はい、父上」
「……すまないな」
父はそれだけ言って、咳をした。痩せた手で口元を押さえる仕草が、前より小さくなっていた。
(謝らないで、父上。私が帰ってきたかったのだから)
口には出さなかった。代わりに、窓際の水差しに新しい水を注いだ。
◇
翌日から畑に出た。
荒れた土を鍬で掘り返す。五年分の固さの下に、黒い柔らかな土の層が隠れていた。
(母が育てた土だ)
この土壌は生きている。手入れさえすれば、また根菜が育つ。
「失礼する」
声が降ってきたのは、鍬を振り上げた瞬間だった。
低い声だった。飾りがない。必要なことだけを短く言う、そういう声。
「隣領の農政官、クラウス・ベルガーです。ブラント男爵領の農地視察に参りました」
振り返ると、大柄な男が畑の端に立っていた。日に焼けた顔。土色の外套。農政官というより農夫に見える風体だが、目だけが鋭かった。
「イレーネ・フォン・ブラントです。ご足労いただきありがとうございます」
クラウスと名乗った男は、畑の土を一つかみ取り、指の間で崩して匂いを嗅いだ。
「いい土だ。五年荒れていてもこの黒さは珍しい。手入れすれば三ヶ月で最初の収穫が出せる」
素っ気ない口調だった。社交辞令がない。一言一言が短く、正確で、余計なものが何もない。
屋敷に戻って保存食の瓶を見せた。ヴァルトシュタインから持ち出したものではない。実家の保存食庫に残っていた、母の時代の最後の瓶だ。
クラウスが瓶を手に取り、封蝋を指で確かめた。
「この封蝋の仕方は」
声のトーンが変わった。ほんの少しだけ、低くなった。
「五年前の領主会議で見た。ヴァルトシュタイン子爵領の特産品として出品されていた保存食と、同じ封蝋だ」
私は首を傾けた。
(五年前の領主会議——?)
記憶を辿った。領主会議には毎年、ディートリヒに同行していた。保存食の出品も確かにしていた。ただ、会議の場で農政官と話した記憶はない。ディートリヒが他の領主たちと歓談している間、私は隅で保存食の瓶を並べ直していただけだ。
あの大勢の中に、この人がいたのか。
「覚えていらっしゃるのですか。あの瓶を?」
「覚えている」
それだけだった。理由も説明も付け足さない。
(——農政官として、優秀な観察眼をお持ちなのだろう)
そう思った。そう思うのが自然だった。五年前の保存食の瓶の封蝋を覚えている人間など、よほど仕事熱心でなければあり得ない。
◇
クラウスが帰った後、保存食庫の整理をしていたら、フリッツが夕食の支度を心配して顔を出した。
「今夜は私が作ります。フリッツは父上のそばにいて」
食材は少なかった。硬くなったパンと、庭に残っていたじゃがいもと、塩。
それでもスープは作れる。薄くても、温かければ。
小さな厨房で、一人きりで鍋をかき混ぜた。ヴァルトシュタインの大きな厨房とは何もかも違う。竈は一つしかない。鍋も一つ。調味料は塩と乾燥ハーブだけ。
それなのに、不思議と手は動いた。母と同じ竈。母と同じ匂い。この台所が、私の料理の始まりだった。
◇
その頃、ヴァルトシュタイン子爵邸では——
「ハンス。保存食の在庫表はどこだ」
ディートリヒが書庫の棚を漁っていた。献立表は十二冊、きちんと並んでいる。だが在庫表が見つからない。
「在庫表でございますか」
「そうだ。どの保存食がどれだけ残っているか、一覧があるはずだろう」
ハンスが口を開き、そして閉じた。
「……あれは、奥方様が頭の中で管理しておいでだったかと」
沈黙が書庫を満たした。
ディートリヒは棚の十二冊を見つめた。完璧に揃った背表紙。完璧に書かれた中身。
だが、それを動かす鍵は、もうこの屋敷のどこにもない。
「——たかが在庫表だ。作り直せばいい」
ディートリヒはそう言って書庫を出た。声だけは、まだ自信に満ちていた。




