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十年分の献立を書き置いて参ります~あなたが「家事くらい誰でもできる」とおっしゃったので~  作者: 秋月 もみじ


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第2話 書き置き


 十二冊の献立表を書き終えたとき、窓の外はもう白んでいた。


 指先がインクで黒い。ペンを置いて、硬くなった指を曲げ伸ばしした。三晩かかった。月ごとの通常献立が六冊、祭事用が二冊、保存食の仕込み手順が四冊。


 書斎の棚に、背表紙を揃えて並べた。


 完璧な引き継ぎ書。一年の流れ、仕込みの時期、食材の仕入れ先、保存食の封蝋の温度。書けることは全て書いた。


 書けないことだけが、残った。



 ◇



 翌朝、領主裁判所に出向いた。


 ヴァルトシュタイン子爵領の裁判所は城下町の広場に面した石造りの建物で、離縁届を受理するのは書記官のグラーフ氏だった。白髪の痩せた男で、私の顔を見るなり椅子を勧めてきた。


「ヴァルトシュタイン子爵夫人が直接おいでとは」


「片方の申請による離縁を届け出たく参りました」


 日記帳をテーブルに置いた。三年と数ヶ月分。


 グラーフ氏が日記をめくった。毎日の三行——天気、献立、夫が来なかったこと——を黙々と確認していく。


「……三年以上の実質的別居の記録ですな。証人は」


「料理番のマルタ、および実家の老執事フリッツの証言を用意できます」


「承知しました。本日付で申請を受理します。子爵殿に異議申し立ての期間が二十日間ございますが、異議がなければ二十日後に正式成立となります」


 書類に署名した。自分の名前を書く手は、震えなかった。


(二十日。あの人が異議を申し立てるかどうか)


 申し立てるとは思えなかった。リゼットの手前もある。離縁を望んでいるのは、むしろ向こうのほうだろう。


 裁判所を出ると、秋の朝日が眩しかった。



 ◇



 最後の朝は厨房で始まった。


「マルタ」


「——奥方様」


 料理番のマルタは、いつも通り五時に厨房にいた。竈の前に立ち、朝食のスープを温めている。五十五年の人生の大半を厨房で過ごしてきた人の背中は、小さいが真っ直ぐだった。


「引き継ぎの話をさせてちょうだい」


 マルタが振り返った。目が赤い。泣いたのだろう。この人は涙を見せまいとする。それでも目の縁だけは隠せない。


「お聞きします」


 竈の前に二人で並んだ。最後の朝食を作りながら——パンに塗るジャムの瓶を開けながら——十年分の台所の話をした。


「秋の根菜は九月の三週目に仕入れること。市場のグスタフさんのところが一番質がいい。量で交渉して」


「はい」


「燻製肉の塩は、気温が下がり始めてから。温かい日にやると味が変わる。指で塩を擦り込むとき、力加減は——」


 言いかけて、止まった。


 力加減は。手の大きさは。指先の感覚は。


 それを言葉にする方法を、私は持っていない。


「……書斎に献立表を置いてあります。十二冊。全て読めば、一年の流れはわかるはず」


「はい」


「でもね、マルタ」


 スープの鍋を見つめたまま言った。


「味は、文字では伝えきれないの」


 マルタの手が止まった。


 鍋の中で、根菜がことこと煮えている。この音を、もう聞くことはないのだろう。


「奥方様の味は」


 マルタが呟いた。声が掠れていた。


「私には出せません」


 返す言葉が見つからなかった。


 マルタが私の手を握った。厨房で荒れた、温かい手。十年間、隣で料理を作り続けてくれた手。


「……ありがとう、マルタ。あなたがいてくれたから、十年やれた」


 それだけ言って、手を離した。


 最後の朝食を二人で食べた。厨房の隅の、使用人用の小さな卓で。ポタージュと固めのパン。いつもと同じ朝食。ただ、パンを千切る音がやけに大きく響いた。



 ◇



 荷造りは少なかった。


 衣類。日記帳。母のレシピノート。それだけだ。


 嫁入り支度金の返還は離縁が正式に成立してから請求できる。二十日後。ディートリヒがすんなり払うとは思えないが、制度がある以上、逃げられない。


 夫人居室を一度だけ見回した。広く、日当たりの良い部屋。十年間、ここで献立を考え、帳簿を確認し、一人で眠った。何も持ち出さない。この部屋のものは全てヴァルトシュタイン家の備品だ。私のものは、頭の中にある知識と、この手の感覚だけ。



 ◇



 馬車が正門の前に止まっていた。


 執事のハンスが一礼した。礼儀正しく、正確で、感情のない一礼。


「長い間、お世話になりました」


「奥方様にも。どうぞお気をつけて」


 声に温度はなかった。ただ形式だけが完璧だった。


 厨房の裏口から、マルタが駆け出てきた。エプロンで手を拭きながら。


 何か言おうとして、言えなくて、目だけが赤くなった。


 私は微笑んだ。今度は本物の微笑みで。


「元気でね」


 馬車に乗り込んだ。振り返らなかった。振り返ったら、きっと降りてしまう。


 馬車が正門を出て、街道に入った。ヴァルトシュタイン領の麦畑が窓の向こうに広がっている。九月初旬の日差しが、黄金の穂を照らしていた。


 頬を伝ったものを、指先で拭った。一粒。たった一粒だけ。


「——泣くのは、これで最後」


 小さく呟いて、日記帳を膝の上に置いた。最後のページに、たった三行。


 今日の天気。晴れ。


 今日の出来事。ヴァルトシュタイン子爵邸を退去。離縁申請受理済み。


 今日、夫が見送りに来なかったこと。

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