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十年分の献立を書き置いて参ります~あなたが「家事くらい誰でもできる」とおっしゃったので~  作者: 秋月 もみじ


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第1話 十年目の晩餐


 あなたが「家事くらい誰でもできる」とおっしゃったのは、ちょうど私が十年目の晩餐の支度を終えた夜のことだった。


 食堂にはこの秋最初の根菜のポタージュ、自家製の燻製鶏、そしてヴァルトシュタイン領産の小麦で焼いたパンが並んでいた。献立は三日前に決め、食材の買い付けは五日前に終わらせ、仕込みは今朝の五時から始めた。


 いつもの晩餐だった。いつもの、十年間繰り返してきた夕べ。


 ただ一つ違ったのは、夫の隣に見知らぬ女性が座っていたことだ。


「紹介しよう。リゼット・フォン・ヘッセン。ヘッセン男爵家のご令嬢だ」


 ディートリヒの声は、社交の場で聞かせるあの滑らかな響きをしていた。柔らかく、よく通り、聞いた人間が思わず耳を傾けてしまう声。この声で伯爵家の当主を懐柔し、交易商人から有利な条件を引き出し、領主会議では周辺領主から「ヴァルトシュタインの若き当主は将来を嘱望される」とまで評された。


 十年前、この声に私も惹かれた。婚約の夜に「君となら良い家庭を築けると思う」と言われた時、その声の温かさは本物だと信じた。


 今はわかる。あれは温かさではなく、精度だった。聞きたい言葉を、聞きたい声で言える——それがこの人の才能だ。


「真の貴婦人とはこういう方を言うのだと、最近つくづく思うのだよ」


 執事のハンスがワイングラスを置く音が、やけに大きく聞こえた。


 リゼットと呼ばれた令嬢が、可憐に微笑んだ。年齢は私より五つか六つ下だろう。亜麻色の髪を丁寧に巻き、淡い桃色のドレスを纏い、困ったように睫毛を伏せている。


(——ああ、この笑い方は上手い)


 困っているように見せて、視線はちゃんと夫の顔を確認している。反応を、確かめている。


「イレーネ」


 夫が私の名を呼んだ。


「君にはこれまで屋敷を任せてきたが、正直なところ——」


 一拍置く。その間が、演出であることはわかっていた。


「家事くらいは、誰でもできる。君がいなくても、屋敷は回る」


 食堂が沈黙した。


 ハンスの手が止まった。厨房の奥で、料理番のマルタが息を飲む気配がした。マルタは耳がいい。ここの厨房は食堂との間に一枚しか壁がないから、声は筒抜けだ。


 私は微笑んだ。


 十年間、この屋敷で覚えた微笑みだ。怒りを隠すためでも、悲しみを堪えるためでもない。ただ、考える時間を稼ぐための顔。


「かしこまりました」


 ディートリヒの目が一瞬だけ揺れた。


 泣くと思っていたのだろう。縋ると思っていたのだろう。「どうか思い直してください」と声を震わせる妻を想像していたのだろう。


 想像が外れた時、人の声は半拍遅れる。


「では、離縁の手続きを進めさせてくださいませ」


 ——今度はリゼットの息が止まった。


 社交界仕込みの微笑みの奥で、計算が走るのが見えた。彼女にとっても想定外だったのだ。


(そうでしょうね。私がおとなしく追い出されると思っていたのでしょう?)


 この屋敷を十年回してきた女を、甘く見ないでほしい。計画なく動いたことは一度もない。



 ◇



 自室に戻った。


 ここだけは私の場所だった。窓の外に月が出ている。書棚には季節ごとの保存食の仕込み表、交易用の瓶詰めの出荷記録、使用人の当番表。十年分の、この屋敷の記録。


 棚の端に保存食の瓶が並んでいる。


 封蝋の具合を一つずつ指先で確かめた。この蝋の硬さで密閉の度合いがわかる。蝋が柔らかすぎれば空気が入る。硬すぎれば開封時に割れる。ちょうど良い硬さを、指先で覚えるまでに三年かかった。


(あと一月で、秋の仕込みの時期が来る)


 根菜の酢漬け、燻製肉の塩加減、果実の砂糖煮——この土地の気候に合わせた配合と仕込みのタイミングは、全て私の頭の中にある。


 献立表には書いてある。「塩を三つまみ」「火を弱めてから半刻」「蓋を開けるのは蒸気が白くなったとき」。


 「三つまみ」は私の手の大きさが基準だ。「蒸気が白くなったとき」は、この厨房のこの竈の火力での話だ。


 誰でもできる、と夫は言った。


 ならばどうぞ、この通りにやってみてくださいませ。


 荷物の中に日記帳を入れた。三年分の日記。夫が私の寝室を訪れなくなってからの、一日も欠かさない記録。


 離縁の法的根拠。三年以上の実質的別居の証明。あの日記がなければ、片方からの離縁申請は通らない。


 泣いて縋ると思っていたのだろう、あの人は。


 ——残念ね。私はずっと前から準備していた。毎晩、たった三行だけ書き続けてきた。


 今日の天気。今日の献立。今日、夫が来なかったこと。



 ◇



 書斎のランプに火を入れた。


 十年分の献立を書き残す。月ごと、季節ごと、祭事ごと。全十二冊。


 完璧な引き継ぎ書だ。


 これを読めば、この屋敷の台所は回るはず——表面上は。


 料理は文字では伝わらない。火加減も、塩梅も、仕込みの判断も、十年かけてこの指先と舌に刻んだものだ。


 ペンを走らせながら、唇の端だけで笑った。


(あなたが「誰でもできる」とおっしゃるなら、どうぞこの通りにやってみてくださいませ)


 窓の外で、ふくろうが鳴いた。


 それに答えるように、ペンが紙を引っ掻く音が続く。晩夏の夜は長い。書き終わるまでに、三晩はかかるだろう。


 構わない。急ぐ理由はない。十年かけて積み上げたものを、丁寧に書き残す。それが、この屋敷への最後の仕事だ。

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