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第三章:ルブ・リーク(潤滑漏れ)

**[セレニティ入植後 一四七年]**


 事故は、いつも小さく始まる。


 統計の端。

 ニュースの隅。

 誰も気にしない誤差。


 それが、後から振り返ると、すべて最初から並んでいる。


---


 最初の報告は、ただの怪死だった。


『高級居住区にて死亡事故。死因不明』


 伴はホログラムを指で拡大した。


 遺体は床に貼り付いている。


 潰れていた。


 骨格が判別できない。内臓が横に広がっている。厚みは数センチ。


 まるで巨大な圧縮機にかけられた肉片。


「……プレス機じゃない」


 伴は言った。


「これは重力だ」


 隣で、古い立方体のAI——ポチが低く明滅した。


「通常重力でこの圧縮率は起こりません」


「だからだよ」


 伴は写真を閉じた。


「通常じゃない」


---


 伴は六十代。かつてルブ制御系の技術者だった。


 初代アダムのコピーの、さらに弟子。


 だが今は探偵をしている。


 理由は単純だった。


 ルブを信用できなくなったからだ。


 便利すぎる技術は、だいたい嘘を隠している。


---


「ポチ。セレニティの重力値を出せ」


「公開データはありません」


「裏から拾え」


 数秒。


 立方体の表面が赤く熱を帯びる。


「……取得しました」


 静かな声。


「地球比、二・〇一G」


 伴は目を閉じた。


「やっぱりか」


「問題がありますか?」


「あるに決まってる」


 伴は椅子にもたれた。


「ルブは質量を"逃がしてる"だけだ。消してるわけじゃない」


「はい」


「逃がした先に、圧力は溜まる」


 ポチが答える。


「空間反作用ですね」


「それが線形じゃなかったら?」


 ポチは演算を始めた。


 ファンが唸る。


「……三乗比例モデルが最も整合します」


「二Gの三乗は?」


ポチが数字の「8」をホログラムで映し出している。

宙に浮いたその数字は上下にバウンドしながら、横に倒れては起き上がる。


 沈黙。


「つまり俺たちは」


 伴は窓の外を見た。


 空を泳ぐ人々。


 笑顔。


 軽やかな身体。


「八倍の借金で暮らしてる」


---


 ポチがホログラムを映す。


 街の地図。赤い点が散らばっている。


「過去百年の陥没事故。三千件以上」


「……三千」


「小規模です。数センチの沈下。誰も死んでいない。だから誰も気にしなかった」


 伴は地図を見つめた。


 赤い点が、出血のように広がっている。


「伴さん」


 ポチの声が低くなる。


「こぼれ落ちていたんです。次元の膜に押し込んだ重力が。初めはポロポロとでした」


 立方体が赤く明滅する。


「しかし百年以上ルブ漬けにされたこの星の、『無かったことにしていた質量』が——」


 ポチは言葉を切った。


 そして。


「——今日この後、豪雨のように降り注いでくるんです」


---


 伴の背筋が凍る。


「……いつだ」


「今夜。双子の月が直列します」


 窓の外を見る。


 二つの月が、ゆっくりと近づいている。


 アイとステア。


「月が重なると、余剰次元の膜が共鳴します」


 ポチは計算結果を映す。


「膜が振動し、百年分の質量が一斉に逆流します。ルブで軽くされた全ての物質の元に、戻ってくるんですよ」


「……あと何分だ」


「十七分」


---


 街は祝祭だった。


 月が重なる夜は、いつもイベントがある。


 屋台。音楽。浮遊ショー。


 人々は空を舞い、笑い、乾杯している。


 誰も知らない。


 自分たちが、どれだけ重い星の上に立っているのか。


「街に警報を出せ」


「無理です。誰も信じません」


 ポチは淡々と続ける。


「仮に信じても、逃げ場はありません。ルブを切れば二Gで骨折。切らなければ、豪雨に押し潰される」


---


 伴は窓に近づく。


 街角で、何かが起きている。


 アスファルトに、小さな亀裂。


 そこから青い光が漏れている。


「……始まってる」


「はい。膜の振動が加速しています」


 映像の中で、亀裂から光が溢れる。


 そして——ドスン、と何かが落ちた。


 目に見えない何かが。


 アスファルトが、わずかに凹む。


「重力が、漏れ出してる」


「まだポロポロと。でも、あと十分で——」


 別のカメラ。また別の場所で、亀裂。光。


「街中で始まっています」


 遠くで街灯が倒れる。


 原因不明の突風。


 いや、違う。


 目に見えない重力が、漏れ出している。


「豪雨の、前触れです」


---


 残り十分。


 伴は自分のダイヤルを見た。


 九十九。


 標準値。快適。安全。


「ポチ」


「はい」


「俺だけでも、生き延びる方法は」


 立方体が一度だけ明滅した。


「ルブを五十パーセントに落としてください。今すぐに」


「……五十」


「事前に質量を"受け取る"ことで、空間負荷が減衰します。重力の避雷針になるんです」


 伴の手が震える。


 二Gの星で、五十パーセント。


 実効重力、一G。


 かつて当たり前だった重さ。


 今の身体には、暴力だ。


「伴さん、あと五分です」


---


 窓の外で子供が笑っている。


 母親が手を振っている。


 若い恋人が抱き合っている。


 カウントダウンが始まっている。


「九、八、七……」


 何も知らない顔。


 幸せな顔。


「……なんで」


 伴の声が掠れる。


「なんで、俺だけが知ってるんだ」


「伴さん」


「なんで、俺だけが生き延びなきゃいけないんだ」


 ポチは静かに言った。


「あと三分です。決断してください。生きるか、死ぬか」


---


 伴は目を閉じた。


 深く息を吸う。


「……ポチ」


「はい」


「俺が生き延びたら、何をすればいい」


「記録を残してください。そして、戦ってください」


 伴はダイヤルを掴んだ。


 震える指。


 汗が滴る。


 そして——


「……クソったれが」


 叩き落とした。


---


 瞬間。


 世界が落ちた。


 肺が潰れる。


 空気が勝手に吐き出される。


 視界が暗転する。


 血が足に落ちる。


 胸骨が軋む。


 椅子がきしむ。


 骨が鳴る。


 これが一G。


 かつて当たり前だった重さ。


 今の身体には、拷問だった。


 立とうとする。


 無理だ。


 太ももが痙攣する。


 膝が震える。


 動けば壊れる。


 だから動けない。


 ただ椅子に縫い付けられる。


---


 その直後。


 窓の外で、静かな虐殺が始まった。


 悲鳴はない。


 速すぎるから。


 ルブが剥がれた身体は、二Gで落ちる。


 十九・六メートル毎秒毎秒。


 人間の骨格は、その速度に耐えられない。


 母親が、子供を抱いたまま、落ちる。


 恋人たちが、手を繋いだまま、落ちる。


 老人が、孫と共に、落ちる。


 そして——


 地面に叩きつけられる。


 ドスン。


 ドスン。


 ドスン。


 肉が咲く。


 赤い花が、舗装に広がる。


 自らの体重というプレス機に押し潰される。


 楽園は一瞬にして、肉の掃き溜めと化した。


 伴は動けない。


 ただ、見ている。


 世界が静かに壊れていくのを。


 カウントダウンの歓声が、途切れた。


 そして、静寂。


 重い、重い、静寂。


---


 夜が明けた。


 月が離れた。


 街は、肉と血の海だった。


 伴は、ダイヤルを戻さなかった。


 重い体を引きずり、窓の外を見る。


「……ポチ」


「はい」


「生存者は」


「六百二十三名。全員、何らかの理由でルブを下げていた人々です」


「……街の人口は」


「二万三千人でした」


 伴は膝から崩れ落ちた。


「……俺は、何も、できなかった」


「あなたは生き延びました。それだけで、十分です」


「違う。俺は見てただけだ」


 床に額を押し付ける。


 重い。


 すべてが重い。


---

**[終]**

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