表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

第二章:ダブル・ジーの箱庭

**[セレニティ入植後 一二三年]**


 朝、目が覚めた理由が分からなかった。


 目覚ましはない。

 遅刻もない。

 罰もない。


 天井の光が、体内時計に合わせて薄く明度を上げていく。AIが「この時刻が最適」と判断しただけだ。起床は意志ではなく、最適化の結果になっていた。


 身体を起こす。


 軽い。


 足の裏が床を踏んでいるのに、床がこちらを押し返してこない。接地の感覚が希薄だった。重力は働いているはずなのに、存在感だけが失われている。


 それが、この星の“標準”だった。


『おはようございます。本日の予定はありません』


 壁の端末が淡々と告げる。


 予定がない日は、予定通りに来る。


---


 朝食はすでに生成されていた。栄養最適化ペースト。トースト風味。

 噛む必要はない。味も匂いも刺激も薄い。口に含めば溶けて、勝手に吸収される。


「……これ、食事って言えるのかな」


 自分でも聞こえるかどうかの、小さな声だった。


「言えるよ。効率いいし」


 返事は軽かった。部屋の隅で青い光の球体がふわりと回転する。使い魔:サポートAIのジロ。人格を模した、身近で安全な知性。孤独を中和するための道具。


「無駄がないのは正義だよ。ここは楽園なんだから」


 地球とは異なり、2つの月が空に浮かぶ楽園。

 この星の合言葉。

 言うたびに意味が少しずつ薄くなる言葉。


 窓の外は、紫がかった空。建物の輪郭がやけに滑らかで、影が淡い。

 街全体が、紙の上の模型みたいに見える。


 触れても、手応えがない。

 掴んでも、反作用がない。


 それが快適であるはずなのに、胸の奥が冷える。


---


 外に出る。


 街は滑らかだった。


 人々は歩いていない。滑っている。空気の上を泳ぐように移動する。足音がない。呼吸音もない。汗もない。髪も乱れない。


 空が近い。

 というより、地面が遠い。


 広場では子どもが遊んでいた。ボールは空中でふわふわ漂う。誰も本気で投げない。誰も走らない。落ちても痛くないから、勢いが要らない。


「体育って、まだあるの?」


 ジロに聞くと、球体が一度だけ明滅した。


「三年前に廃止された。意味ないって」


「意味ない?」


「筋力いらないし、怪我のリスクだけあるし。合理的でしょ」


 合理的だ。

 正しい。

 だから反論しづらい。


 その正しさが、胸の奥をじわじわ殺す。


---


 研究棟も、教育区画も、芸術回廊も同じだった。


 絵はAIが描く。

 音楽もAI。

 論文もAI。

 新しい発明もAI。


 人間はそれを鑑賞し、評価し、共有する。

 “楽しむ”という形で参加する。


 参加しているつもりで、外側にいる。


「人間って、何やってるの?」


 自分でも意地の悪い問いだと思った。


 ジロは悪気なく答えた。


「遊んでるだけだね」


 少し間を置いて、冗談みたいに付け足す。


「ぶっちゃけ、人類いらなくない?」


 笑えなかった。


 反論が浮かばなかった。


 反論を探す脳みそ自体が、もう“必要ない側”へ押しやられている気がした。


---


 午後、アーカイブ室に入った。理由は、暇だったから。


 地球時代の映像が並ぶ。ざらついた画質。乱れた音。

 それが妙に生々しい。


 映像の中で、人が走っていた。


 汗を流し、歯を食いしばり、重い箱を担ぎ、階段を駆け上がる。転ぶ。泥だらけになる。怒鳴る。笑う。立ち上がる。


 苦しいはずなのに、どうしてあんなに“生きている顔”をしているのか。


 映像越しに、こちらの心臓の位置を指で押されるみたいだった。


「……なんで」


 言葉が出た瞬間、自分が驚いた。


 地球の人間は、何かに抗っている。

 抗うから、輪郭ができる。

 輪郭があるから、自分がいる。


 セレニティでは、抗う必要がない。

 だから輪郭が溶ける。


 それが快適であるはずなのに、恐ろしく感じた。


---


 帰宅して、ルブ・ダイヤルに触れる。


 九十九パーセント。

 標準値。快適値。安全値。


 ゆっくり回す。


 九十。足の裏に感触が戻る。

 八十。呼吸が少し重くなる。

 七十。太ももが軋む。

 六十。心臓の音がうるさい。


 ドクン、ドクン。


 汗が滲む。汗の匂いがする。匂いがするというだけで世界が戻ってくる感覚があった。


「マスター、出力異常。戻す?」


「……いや」


 自分の声が少しだけ明るかった。


「なんか……生きてる感じがする」


 ジロは少し黙ってから、軽く言った。


「変な趣味だね。でもまあ、好きにすれば」


 “好きにすれば”という自由は、この星では毒にも薬にもならない。

 自由が軽すぎるからだ。


---


 チャイムが鳴る。


 扉の向こうに、リアが立っていた。明るくて、速くて、いつも何かに夢中な人間。僕と同じ時代に生まれて、僕とは違う仕方で空虚を誤魔化している。


「遅い。何してたの?」


「……別に」


 リアは僕の汗を見て、顔をしかめる。


「何それ」


「ルブ下げてる」


「なんでそんな無駄なことするの?」


 正論だった。

 この星の正論はいつも軽い。


「軽いほうが楽じゃん。苦しいこと選ぶ意味ある?」


 僕は答えるのに少し時間がかかった。


「……軽すぎると、何も感じない」


 触れても掴んでも現実味がない。

 手応えがない。反作用がない。


「重いほうが、ちゃんとここにいる気がする」


 リアは理解できない顔で笑った。


「変なの」


 でも、その笑い方が少しだけ揺れた。興味だ。嫌悪ではない。


---


 その夜、僕はルブを下げたまま彼女を抱いた。


 言葉にすると陳腐になる。

 だから感覚だけを書く。


 皮膚が押し返す。

 体温が伝わる。

 呼吸がぶつかる。

 摩擦が生まれる。


 軽い世界で失われていた“抵抗”が、そこにあった。


 抵抗は快感というより証明だった。

 自分がここにいる。相手がここにいる。世界がここにある。


 その事実が、少しだけ救いに近かった。


---


 数日後、リアが言った。


「ねえ、あなたみたいなの、他にもいるって」


「僕みたいなの?」


「“重さ派”って呼ばれてる。筋トレしたり、わざとルブ下げて生活したり」


 笑いながら言っている。噂話の軽さで。

 でも、僕の胸の奥だけが妙に反応した。


「どこに?」


「旧整備区画の地下。今は倉庫みたいなとこ。行ったことないけど」


 ジロが割り込む。


「危ないよ。あそこは古い。メンテも最小限。ルブの安定場から外れる区画がある」


「安定場?」


「出力が揺れるってこと。だからみんな近づかない」


 揺れる。

 揺れるのは“重さ”だ。


 嫌な言葉だった。

 でも、今の僕には、むしろそれが魅力に聞こえた。


---


 その夜、僕は一人で旧整備区画へ向かった。


 地上の街の滑らかさが、途中から急に薄れる。

 壁の塗装が剥がれ、床に細いひびが走り、照明の色温度が少しだけ冷たくなる。


 空気が、わずかに重い。


 地下の扉を開けた瞬間、足が床に吸い付いた。


 ルブが弱い。

 目に見えない“押し返し”がある。


 そこに、十人ほどの人間がいた。


 誰も飛んでいない。

 誰も滑っていない。

 ただ、重い足取りで歩き、呼吸し、汗を流している。


 部屋の中央で、鉄の棒を持ち上げる男がいた。肩が震え、歯を食いしばっている。

 その顔が、地球映像の人間と同じ種類の輪郭を持っていた。


 その横で、薄い灰色の立方体が光っている。使い魔AIだ。球体ではない。古い形。角が欠け、表面に擦れがある。


 立方体が低い声で言う。


「フォームが崩れている。腰を先に殺す。呼吸を合わせろ」


 軽口でも慰めでもない。

 ただ、事実を言う。


 男が呻くように息を吐き、もう一度持ち上げる。


 鉄が上がった。


 その瞬間、部屋に小さな拍手が起きた。

 祝祭ではない。生存確認の拍手だった。


---


 僕が立ち尽くしていると、誰かが声をかけた。


「初めて?」


 振り向くと、年上の男がいた。三十代後半か四十代前半。目の下に薄い隈。

 服は整備員の作業着で、袖口が油で汚れている。


「……はい」


「ここは“重さ派”って呼ばれてるらしいね。好きに呼べばいい」


 男は笑わなかった。


 代わりに、足元を見ろというように顎をしゃくる。


「立ってるだけで分かるだろ。ここは床がちゃんと“いる”」


 確かに。

 床が存在している。

 押し返してくる。触れている。


「どうして……こんなことを」


 僕が言うと、男は少しだけ黙った。


「理由は二つある」


 短い呼吸。


「一つ。退屈だから。軽すぎると人間は壊れる。輪郭が溶ける」


 僕の胸の奥を、その言葉が正確に刺した。


「もう一つは……」


 男は言葉を選んだ。

 選ぶ間が、怖かった。


「……保険だ」


「保険?」


「この星は、重い。俺たちはそれを忘れてる」


 僕は反射的に聞いた。


「重いって……どれくらい?」


 男は即答しなかった。

 それが答えだった。


「公開されてない」


 男は言う。


「ルブがあるから、みんな気にしない。でもな、現実は“気にしてない”側を許さない」


 彼は自分の腕のダイヤルに視線を落とした。


「俺たちは、借金で飛んでる」


 そのとき、天井の照明が一瞬だけ脈打った。


 ほんの数秒。

 でも、はっきり分かった。


 床が重くなる。

 胸が圧迫される。

 誰かが咳き込む。


 重さの“揺れ”。


 立方体のAIが低い声で言った。


「ルブ出力ログ、乱れ。局所的な落ち込み。記録する」


 男が舌打ちする。


「またか」


「また?」


 男は僕を見る。


「最近増えてる。リークみたいなもんだ。原因は公式には“ノイズ”。便利な言葉だ」


 “ノイズ”。

 便利だ。責任が消える。

 軽い文明が好きな言葉だ。


 僕は思わず聞いた。


「危険なんですか?」


 男は答えなかった。

 その代わり、床のひび割れを指さした。


「見えるだろ」


 ひび割れは細い。

 細すぎて、出来事にならない。


 でも、ひび割れは“増える”。


 増えるものは、いつか面になる。

 面になったら、落ちる。


 この星では、落ちるという概念すら、日常から消えているのに。


---


 帰り道、僕は遠回りをして街の外縁を歩いた。


 滑らかな舗装の下に、古い地面が眠っている。

 眠っているというより、押し込まれている。


 路肩に小さな立ち入り禁止の柵があった。

 誰も気にしていない柵。

 柵の向こうで、地面がわずかに沈んでいる。


 数センチ。

 しかし、そこに確かな“下向き”がある。


 僕はその沈みを見つめた。


 軽い街の中で、そこだけが重い現実みたいだった。


 背中でジロが言う。


「ねえ、マスター。そんなの見ても気分悪くなるだけだよ。帰ろう」


 僕は答えなかった。


 頭の中に、さっきの男の言葉が残っている。


 ――借金で飛んでる。


 僕は自分のダイヤルに触れた。九十九。

 標準値。快適値。安全値。


 そして、少しだけ回した。


 九十。


 足の裏が、わずかに床を感じる。

 わずかに押し返す。

 わずかに現実になる。


 たったそれだけで、街が違って見えた。


 空を舞う人々の笑顔が、軽すぎる。

 軽さが、浮遊ではなく逃避に見える。


 この文明が何から逃げているのか。

 どこに重さを押し込んでいるのか。


 僕はまだ知らない。


 でも、知ってしまった気がした。


 重さは、消えていない。

 ただ、どこかに置かれている。


 そして、それは――

 いつか戻ってくる。


---


## 第二章 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ