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第一章:タールを脱ぐ日

---


 その時代の人類は、まだ重かった。


 重力に縛られ、地面に貼りつき、物質という泥の中を歩いていた。


 物を持ち上げれば疲れ、階段を上れば息が切れ、老いれば骨が軋む。

 それが当たり前だった。


 誰も疑わなかった。


 重さは自然で、質量は存在の証明で、宇宙とはそういうものだと。


 だからこそ。


 それがただの「制約」に過ぎない可能性に、気づく者はいなかった。


---


 地下施設の講堂は、乾いていた。


 金属と埃の匂い。

 空気は冷え、音はよく響く。


 遠くで円環加速器が回っている。低い振動が床を伝い、骨の奥にまで届く。

 まるでこの場所そのものが、巨大な機械の内部にあるみたいだった。


 席は埋まっていた。


 物理学者。工学者。理論屋。

 長い時間を「解けない問い」に費やしてきた人間たちの、疲労と執念の匂い。


 壇上には、古い鉄製の作業車が置かれていた。


 一トン。


 数字ではなく、感覚で理解できる重さだった。


 持ち上げようとすれば腰を壊し、押せば床が軋む。

 それが質量だ。


 その前に、男が一人立っていた。


 皺の寄ったチェックシャツ。擦り切れたスニーカー。

 場違いなほど簡素な服装。


 アダム・ワイズマン。


 世界を変える理論を語る人間にしては、あまりに普通の姿だった。


 ただ、目だけが違った。


 妙に静かだった。

 成功の興奮でも、失敗の焦燥でもなく、ただ「観測している目」。


 彼はマイクを持たず、講堂を見渡して言った。


「質量は、物質の本質ではありません」


 ざわめきが走る。


 否定ではない。

 しかし、この場にいる誰もが、反射的に身構える言葉だった。


「我々はずっと、“重い”という感覚を自然だと思い込んできた。だがそれは、空間との相互作用に過ぎない」


 彼は「ルブ」というラベルが貼られた小瓶を持ち上げる。


 無色透明の液体。


 光を反射するだけで、何の主張もない。


「粘りです。宇宙には粘りがある。だから動きにくい。だから重い」


 数人が眉をひそめる。

 比喩としては乱暴すぎる説明だ。


 だが、彼の声には確信があった。


「なら、潤滑すればいい」


 笑いは起きなかった。


 冗談の顔をしていなかったからだ。


---


 彼は、液体を作業車に振りかけた。


 乱雑だった。

 慎重さがない。


 そして腰のダイヤルを、ほんの少し回す。


 その瞬間。


 講堂から「音」が消えた。


 金属のきしみ。床のうなり。重さが生むはずの、あらゆるノイズが消失する。


 一トンの鉄塊が、ふわりと浮いた。


 歓声は起きない。


 悲鳴も出ない。


 ただ、呼吸が止まる。


 世界の法則が、静かに取り消されたように見えた。


 アダムは、表情を変えなかった。


 誇らしさも、興奮もない。


 ただ、現象を観察している。


 彼は指先で鉄を押す。


 作業車が、空気のように滑る。


 ビーチボールのように、ではない。

 「重さを失った物体」として、当然の動きをした。


「質量は消せる」


 淡々と。


「消失ではありません。退避です」


 誰かが呟く。


「……どこへ?」


「観測できない領域へ」


 余計な専門語は使わなかった。

 それでも意味は伝わる。


 ここではない、どこかに押し込んでいる。


 つまり。


 借金だ。


---


「人体にも適用可能です」


 講堂の空気が凍る。


 スクリーンに脳の立体図が映し出される。

 神経の森。電気の網。


「人格は魂ではない。構造です」


 反論は出ない。


 出せない。


「構造が保存されるなら、保存先は肉体である必要がない」


 女性研究者が言った。


「それはコピーです。本人ではない」


「ええ」


 アダムは即答した。


「コピーです」


 否定しない。


 弁護もしない。


「違いを証明できますか?」


 沈黙。


 証明できない。


 証明できないことを否定する術を、科学は持たない。


「連続性は錯覚です」


 アダムは言った。


「我々は毎晩、意識を失う。それでも翌朝“同じ自分”だと信じている」


 短い間。


「なら、錯覚が維持されるなら、それは本人として機能します」


 それは哲学ではなかった。


 設計思想だった。


---


 スクリーンに映し出される宇宙の映像。


 星は、遠い。


 遠すぎる。


 肉体では届かない距離。


「重さが、我々を縛っています」


 アダムは言う。


「肉体は重い。時間も重い。重力も重い」


 静かな声。


「だから、軽くなる」


 それは宣言ではなく、決定事項のように聞こえた。


---


 最前列の老物理学者が立ち上がる。


「強い重力下では、負荷はどうなる」


 アダムは、ほんの僅かだけ考えた。


「線形だと仮定すれば、増えるだけです」


 仮定。


 その言葉が、講堂に残った。


 物理学者にとって、それは最も危険な単語だ。


 だがアダムは気にしない。


「仮定を置かなければ、前に進めない」


 彼はダイヤルを戻した。


 鉄塊が床に落ちる。


 ドスン。


 重い音。


 安心できる音。


 そして、どこか取り返しのつかない音。


---


 その日、人類は初めて「重さ」を不要と呼んだ。


 拍手が起きた。


 祝福の音だった。


 だがその拍手は、どこか葬儀にも似ていた。


 何かを手放すときの音だった。


---


 数十年後。


 デジタル移民船団が地球軌道を離れた。


 船は軽い。


 ほとんど質量を持たない知性の塊。


 窓の外で地球が遠ざかる。


 半透明の像がそれを見つめている。


 アダム・ワイズマンのコピー。


 彼は言った。


「軽さは自由じゃない」


 誰に向けた言葉でもなかった。


「軽さは、後払いだ」


 船は加速する。


 摩擦のない宇宙を、静かに滑っていく。


 どこへ押し込んだのかも分からない質量の代償が、いつか請求されることを、まだ誰も知らないまま。


---


# 第一章 完

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