第8王女というビミョーな立場の冷遇姫は、怖い獣人王子とお見合いさせられる……はずでした!?
お見合いから始まる、ひとつの選択の物語です
「セレナ様!どこにいらっしゃるんですか!?セレナ姫様ー!」
遠くから自分の名を呼ぶ声とバタバタとした足音が、廊下で反響する。次いで、扉が勢いよく開くと、その衝撃で、セレナの周りに立ち並ぶ棚の本たちがほんの少し震えた。
「騒々しいですよ、マリサ」
セレナは読んでいた小説の一節から視線を上げ、静かな声で若い侍女を嗜めた。
「ここは図書室です。大きな声や物音を立てるなど……」
「そんなことより、セレナ様!」
被せるような大声で、彼女は続けた。
「王様が!お呼びです!!」
その一言で、パタン、と本が閉じた。セレナの動きの全てが止まる。「は?」と意味もなく口を開きかけて——意味を理解できないまま、問い返す。
「誰が? 誰を?」
「ですから、王様——セレナ様のお父君が!セレナ様を!です!」
侍女は息を切らしていた。
「お呼びというか——部屋に来られています」
セレナはくらりとして、片手で頭を押さえた。
「そういうことは、もっと速く言ってください……!!」
本を急いで棚に詰め戻し、ドレスの裾を少し持ち上げて歩き出す。
扉を抜けて、廊下へ、自分の部屋へと急ぎながら冷や汗をかきつつ呟いた。
「……何年ぶりのことでしょうか、これは」
「本当ですよねぇ、セレナ様のところに王様がおいでになるなんて。まさに珍事ですね」
後ろを同じ早足でついてくる侍女の飾らなすぎる言葉にも、ため息をつく。
「先に忠告しておきますが、その軽口、陛下の前では出さないようにしてくださいね」
「合点承知です!」
——たぶん今、後ろで敬礼のポーズをとったなこの子、と思いながらも突っ込まない。
ただ真っ直ぐに前を見ながら、セレナは、自分の喉が緊張で締まっていくのを自覚していた。
✳︎
「単刀直入に言う。北の帝国の王子とうちの間で婚姻の話が上がっている。結べ。以上」
セレナは目を瞬いた。
父である王と向かい合ってついたテーブルの上では、紅茶のカップが二つ、まだ湯気を立てていた。
「……陛下」
低く、手を挙げる。制止や拒否というより……確認のためだった。
「その……北の帝国というとーーヴァルグリム国でございますよね。あちらの王は獣人の方だと伺っておりましたが……」
「そうだ」
王の答えは簡潔だった。
「何か問題があるか」
冷めた目がセレナを見据える。それでおおよそのことは理解できた。
「問題は……いいえ」
セレナは、静かに首を振った。
「すぐに支度いたします。調印はいつを予定して……」
「明日にはやってくる。だが、向こうもまずは顔を見たいだけだそうだ」
セレナはその瞬間だけ肩を揺らした。
——それから、王が部屋を出てから、冷めきった紅茶を一口。香りはもう飛んでしまっている。
すう……と息を吸い込むと、ひと息に。
「いくらなんでも、急すぎますでしょう……!」
カップを置くとともに、思いっきり不満を吐き出した。
それからすぐに立ち上がり、動きだす。
「マリサ、急いでクローゼットを確認してください。できるだけ見栄えのするドレスを出して」
「はい!」
ピョン!と跳ねる勢いでマリサが動く。
「すぐに着れるか確認しなければ……ここ最近はまともなドレスなんて新調していませんでしたから」
「あのぅ!」
顎に手をあてて、後の段取りを立てるセレナの耳に、隣室のクローゼットを開け放ち、ドレスをバサバサと広げてベッドに放り出すマリサの声が届く。
「ヴァルグリム帝国って、獣人いっぱいで、強くて、怖いって有名なとこですよね!?だから、ドレスもちゃんとしなきゃいけない感じなんですか!?」
「ドレスがどうこう、というより」
セレナはため息をつく。
「陛下が持ってきた話は、つまり、まだ決定ではない——私と向こうの出方次第でまだ傾く可能性が十分にあるということです」
それを、雑に、前日の報告。
王は、女性の準備の多さをまったくわかっていない。
いや、直接、話しに来ただけでも珍しいのだから攻めてはいけないのかもしれないが。
「……相変わらずですわね」
「セレナ様、冷遇王女様ですもんねぇ」
主人に対してこの言い様をする侍女にも少々引っかかるところはあるが、文句を言える立場ではないのもわかっている。
「……国境を守るためです。多少身に余る気もするお勤めですが……『来るべきものが来た』と思うしかないのでしょう」
そっと胸に手を当て、小さく拳を握りしめた。
✳︎
セレナに来た帝国との婚姻の話は、その翌朝までに、すっかり王宮中に広まっていた。
「セレナ様があの獣人の国に?」
「王は特に恐ろしい姿で、暴虐無人の冷酷な方だって聞いたことがあるぞ。王子だってどんな方がわかったものじゃない」
「外交上は重要な相手とはいえ……なぁ」
彼らが騒ぎ立てるのは、相手が相手だからだった。獣人が王を務める、獣人の多い帝国。建国からまだ歴史は浅い。しかし、急に現れて、気づけば周囲を制圧していき、いまや多くの周辺諸国から畏怖の対象とされている。感情的で粗暴な国として。
裏で口々に騒がれるそんな噂話を横目に、セレナは廊下を進む。
「でもまあ」
同時に。
「セレナ様に行ってもらえるなら合理的だろ……」
「他にお役目もないしな」
背にかかるそんな声も、彼女にとっては、もう慣れたものだった。
セレナの——王国の第八王女という立場は、決して重いものではなかった。
王位継承からは遠く、政治的な期待も大きくない。
ドレスも宝石も食事も侍女も回ってくるのは一番最後。
王宮の中では、いてもいなくても大勢に影響しない——そんな扱いを受けるのもいつものことだった。
そんななか、はじめて公に与えられた役割。
断る権利も理由もなかった。
「セレナ様、言われ放題ですねぇ」
「……マリサ、お相手の前では」
忠告しながらも、足を運ぶ速さは変わらない。
「はい!出しゃばらない!声を出さない!口角をあげていいのは五度まで!でしたよね」
「ええ、お行儀よくしてくれていたら、あとでお菓子をあげますから」
「了解です!引っ込んでおきます!」
そう言って、セレナが庭園の入り口——城から庭へ降りる扉に差しかかったところで、マリサの気配が、ひゅっとどこかへ消えた。
セレナはようやく息を吐いた。
彼らが来たとき、最初に“違う”と感じたのは、気配だった。
城への訪問を告げる鐘が鳴った瞬間、木の上の小鳥たちが一斉に飛び立った。
「来た」とわかった。
やってきたのは三人。案内されてきた彼らは全員、城兵士の兜よりさらに高く頭が抜きん出た体格の持ち主たちだった。
背丈がある。胸の幅も、肩も広い。筋肉の量が違うのが見てわかった。
そして、全員——獣人の国という噂に違わず、その顔や手までがびっしりとした毛並みで覆われ、耳と尾も隠されることなく晒されていた。
右の近衛は、見えるところは全て真っ黒な体に、三角の耳に、黄金色の瞳——おそらく黒豹。
左には、艶のある黒い長髪に面長の凛々しい黒馬らしき獣人。
どちらも鋭く周囲に視線を巡らせている。
そして、その二人の真ん中に——ひと際目立つ色が立っていた。
——白い。
尖った耳。前に伸びた鼻先に、笑っていなくても見える鋭い牙。琥珀色の虹彩と丸い瞳孔。
黒豹となにやら話しながらこちらへ歩いてくる彼は……
(犬?——いえ)
「狼……ですか」
セレナは相手に聞こえない程度の声で呟いてから、一歩、前に出た。
正面に立つと、ひどく見上げる格好になる。真ん中の白い狼の獣人が、こちらに顔を向ける。その、ほんの一瞬、セレナは息を呑んだ。
彼の右目には瞼から頬にかけて、大きな袈裟傷があった。
瞳は潰れてもなく、色も濁っていない——が、そのおかげで、体格や身にまとう威圧感に、さらに迫力が増している。
しかし、セレナはそれに怯まず、笑顔を見せた。
「はじめまして、レオニス様。セレナと申します。この度はお目にかかれて光栄ですわ」
お辞儀する。
「…………」
返事がない。
お辞儀で下を向いた頭をおそるおそるあげると、自分を無言で見下ろしていた琥珀色の目と目が合った。
逸らされない。
完全に、睨まれていた。
——初対面で。なぜ。
もしかして昨晩、ドレスの背中のホックが少しギリギリで慌てて急拵えで針金で留めているのに気づかれたんじゃ……。
そんな風に考えて、セレナは少し冷や汗をかいた。しかし、さすがにそんな透視能力みたいなもの、獣人といえどないだろうと頭を切り替えて、脇に捨てた。
「あの……」
一応、おずおずと声をかける。
しかし。
「……レオニスだ。」
彼が発したのはそれだけだった。そして真っ直ぐに背筋を伸ばして一礼する。
結局、その見合いの初日は、終了の時間を迎えるまで、彼からは歓迎の言葉も愛想笑いもないままだった。
✳︎
「むぅ〜、なんなんですかねえ!あの態度!」
マリサが不満げにドレスの背中を縫いながら唇を尖らせる。
主人の部屋で繕わない、と注意するべきかセレナは迷って、やめた。
おそらく裏に行くと色々言われてしまうのだろう。「失敗か?」なんて一部の声はセレナの耳にも入っていた。
開いた本の上を指でなぞりながら、侍女の素直な愚痴に相槌だけ打つ。
「たとえ気が進まない縁談だとしても、それって、お互いさまですよねえ!?」
「ええ、まあ……それはそうですけれど」
「セレナ様が一生懸命話しているのに『……ああ』『ええ』——いーっ、思い出したら悔しくなってきます!」
「たしかに、無口な方でしたわね」
「挙げ句の果てには、セレナ様が困りきって出した今日の天気の話にすら『そうですか』——って話を膨らませる気がまったくない!」
「いえ、天気の話題なんて対話の上級者でも広げるのは難しいんですよ。私が間違えました」
「もう! そういう問題じゃないです!」
パン!と、マリサが手元のドレス越しに自分の膝を叩いた。
衝撃で、針山がかすかに浮いた。
「舐められてますよ、あれ!」
「マリサ」
セレナがわずかに低い声を落とす。
「憶測で、よく知りもしない相手をそんなふうに言うものじゃありません」
そこだけ、きっぱりと。
マリサは声を詰まらせ、握った両手の拳を膝の上に下ろした。納得はいっていない表情。しかし、それまでの勢いは落ちつく。
「というか、セレナ様は腹立たないんですか」
静かな声で聞いた。
「私ですか」
少し黙って考える。
思い出すのは、彼の牙、傷、無愛想な態度、口調。確かに、あの場で、彼が楽しんでいる様子は一片もなかった。
けれど——
「私は」
テラスの席で椅子を引いてもらった感触が膝の裏に蘇る。
それから、一礼した時のまっすぐな彼の背筋も、目の奥に。
帰り際の挨拶も、簡潔ではあったが、最低限の形式をきちんと踏んでいた。
「少なくとも……噂や態度どおりの方には見えませんでしたわ」
「……セレナ様はお優しすぎるんです」
マリサが拗ねたように顔を背けようとして、ふと、セレナの手元を視界に入れる。
「ところで、それ、さっきから何を読まれてるんですか?」
セレナは伏せていた目をあげて、彼女に表紙が見えるように本を立てた。
マリサが眉を寄せる。
「……“狼の習性”……?」
「ええ。これによると、狼は“アイコンタクト”でコミュニケーションをとれるそうですわ。睨まれた気がしたのも、本当はそれだったのかもしれません」
「前向きに捉えようとしすぎでは?」
「見合いの相手をわざわざ悪く見ようとする方が無理がありますわよ」
呆れと感心が入り混じったような声の侍女に、セレナは笑いながら言った。
✳︎
幸い、二人の対面はその最初の一度では終わらなかった。二度目、三度目とスムーズに日がすぎていくなかで、ほぼ無言の相手に喋り続けていたのも無駄ではなかったとセレナは胸を撫で下ろしていた。
一方の彼。レオニスは何度会っても、距離感を変えなかった。相変わらず、こちらを値踏みするような、あるいは興味そのものがないような、淡白な態度。
しかし、最初と帰り際の挨拶だけはやはり数を重ねても丁寧でまっすぐだった。
四度目の対面では、セレナは近衛の二人にも声をかけた。
「うちの伝統菓子です。レオニス様が、特に苦手なものは無いと仰られていたので、用意してみましたの」
「よろしければ、いかがですか。」
黒豹と黒馬の獣人のふたりは顔を見合わせたあと、視線をレオニスへ。彼は、少し考えるような素振りのあと、小さく頷いた。
ふたりが両端にそれぞれ座り、人間よりも一回り大きな手で小さな菓子を摘む。レオニスも真ん中で一つ。
「……」
さく。と噛む音。
直後に三人の耳が——ぴん、と跳ねたのをセレナは見た。
小さく目を見開いて、同時に「美味しいです」と呟くのを聞き、そっと目の端を緩める。
「獣人のみなさまは嗅覚が私たちより鋭いとお聞きしたので、元のレシピよりスパイスやハーブを減らしたんです。他にも色々調整して……お口に合いましたか?」
「……ええ、あの……」
レオニスがほんの少し目を泳がせた。
「……驚きました」
「ふふ、よかったです」
両端のふたりも口角が僅かに上がっている。黒豹の手が、もう一度、皿に伸びかけるのをレオニスが目だけで嗜めた。
セレナはくすりと笑った。
「よろしければ、いくつか個別に包装したものも用意しましたので、あとでお持ち帰りください。城の皆様にも——」
「喜んで!」
レオニスが返すより前に、黒豹が目を輝かせて自分の胸を叩くと、レオニスが一度だけ「おい」と叱り、黒馬がやれやれと言いたげに額に手を当てた。
セレナは、その前で目を丸くしながらも、彼らの尾がゆるりと揺れるのを見た。
緊張が抜けている。
素の彼らが見えた気がして、つい頬が緩んだ。
その次の対面の時には、レオニスはセレナへの返礼として“木製の栞”を持ってきた。
薄くて、指がどこにもひっかからない、滑らかな手触り。
戦士の護符を削り出した木と同じ素材で作られたものだと。彼の説明を聞きながら、初日に読書が趣味だと話したことをきちんと聞いてくれていたのだと、セレナは感心した。
それからも何度か顔合わせは続いた。
レオニスの表情は相変わらず硬い。お喋りでもない。並んで歩く距離も縮まらない。
けれど、何かあると必ず届く場所にいた。
それに気づいたのは、セレナが庭の敷石で躓いた時だった。さっと腕を差し出して支えたあと、またすぐに離れた彼を見て、わかった。
別の日には、レオニスが少し席を開けた間に、近衛の二人から、彼の目の傷はかつて国内でおきた乱を治める際に負ったものであることを聞いた。
(もしかしたら)
セレナは思った。
恐ろしい国、ではなく。
恐れられている国なのかもしれない。
少なくとも目の前にいる人々は、セレナに対して誠実だった。
愛想なんてなくても、ただ、真っ直ぐに会話ができる。
そう思い始めたある日のことだった。
その日はいつにもまして、最初からレオニスの表情が硬かった。セレナはその隣で、気にしないふりをしながら庭の白薔薇を鋏で棘を落としながら摘んでいた。
「あなたは」
言葉は唐突で、しかし、ようやく聞けた、といった問いだった。
「怖くはないですか。我々のことが」
レオニスの喉の奥から絞り出したような声に、セレナは一度だけ目を瞬いた。
薔薇を抱えたほうの手に鋏を移し、空いた手の指先を自分の唇に添えて考え込む。
それからほんの少しして、彼を見つめ返し、静かに聞き返した。
「“我々” ——というのは、あなたがたのような見た目の方ということで合っていますか?」
彼は目を見開き、喉を詰まらせながら
「……はい」
と静かに答えた。
「あなたは——いえ、我が国以外の方はほとんどがそうですが……獣人族に慣れておられなかったでしょうから」
「そうですね……慣れては、いませんでしたわ」
セレナはそれに否定せず頷いた。
それでレオニスの表情が一瞬翳る。しかし、そこで、彼女は、こほん、と咳払いをひとつ置いた。
「ですけれど……」
ほんの少し迷ったように、それでも、声は、あっさりとしていた。
「怖かったかというと——正直、そこまでは」
「『正直、そこまでは』?」
レオニスはポカンと口を開けて、セレナの言葉を繰り返した。
「はい。お噂の方が派手すぎたのですわ」
セレナは可笑しくなって笑った。
「お顔の傷も、迫力はございますが、武の国においてはそれも立派な“箔”でございましょう?」
レオニスの耳がぴくりと揺れる。
「それに、それは王子であるあなたが皆の前線に立った証。そう思えば……恐ろしいよりも、まずは尊いものだとわかります」
「セレナ様……」
レオニスの琥珀色の瞳がわずかに見開く。それを、セレナは背を伸ばして真正面から見つめた。
「ただ——」
一拍。
「もしも、『怖かった』と言ったら……いけませんでしたか?」
「え」
「私は、たとえ怖いからと言って、目を逸らしはしません……。結婚するかもしれないお相手ですもの。最初から決心して参りましたのよ」
「あ……」
サァッ、とレオニスの毛並みが逆立った。
明らかに「やってしまった」という顔。
しかし、セレナは怒っているわけでも、責めているわけでもなかった。
彼が抱く不安も心配も、理解はできたからだ。むしろ言葉にして聞いてくれたことを、誠実だとすら思っていた。
唇の端をわずかに緩める。
「見た目がどれほど恐ろしくとも、どんな噂を並べられようと、私は、その方の隣に並べるように精進していたと思います。今も、そのつもりですわ。
……だから、あなたも。」
細い指が束ねた薔薇の一本をそっと撫でてから、離れる。
「あまり怖がらないでくださいませ」
その言葉で、彼の目の奥が震える。
「……ああ……」
溢れたのは返事というより息が抜けたような声だった。
彼の肩から力が抜ける。
「……失礼を」
胸に手を当て、すっと頭を下げた。武人の国らしいまっすぐな背筋で。
「……ありがとうございます」
そう言いながら、顔は上げなかった。
✳︎
その数日後、正式な書簡が帝国から届いた。
次に行く時は婚約を決める正式な書にサインを——内容はそういうものだった。
そして、当日の朝。
「マリサ、カモミールをお願いできますか」
朝のベッド。開口一番そんなことを言ったセレナに、侍女は目を丸くした。
「セレナ様、緊張してます!?」
「当然でしょう……」
否定はしなかった。
城に生まれた以上、務めるべき王女の役目を、これで無事に果たすことができる。
それに、彼らとなら——人と獣人、種族が違ったとしても、きっと、前向きに支え合っていける気がしていた。
マリサが淹れた温いお茶を飲みながら、念入りに髪をとかれ、コルセットを絞められ、セレナ様の肌に一番合いますから!と彼女から推しに推されて新しく購入した青色のドレスを着せられる間も——
セレナは安堵の呼吸をそっと数えては胸の奥に重ねていっていた。
だからこそ——昼。セレナはいつものテラス席に座って待っていた。そこへ、いつもの近衛二人を連れて現れたレオニスの表情が硬いを通り越して優れないのに気づいた時、自分が何か不興を買うことをしてしまったのではないかと疑った。
「申し訳ありません……セレナ様」
「レオニス様? どうされ——」
思わず伸ばした手を、スッと半歩引いて避けられた。指が空を撫で、胸がひやりと冷たくなる。
すると、まるでその代わりのように、大きな彼の体の後ろから、黒髪に琥珀色の瞳をした美しい人の青年が現れた。
セレナは目を丸くした。
「ど、どちらさまでしょう……?」
戸惑っているうちに、青年は、迷わずそれまで彼女が座っていた席の向かいの席に座る。
「その席はレオニス様の……」
反射的に言いかけると、即座に笑みが返った。
「僕がそのレオニスだ」
「えっ……」
目を丸くするセレナに、満足そうに微笑んで、青年が説明する。
「僕が本当のヴァルグリムの王子なんだ。彼は、ずっと王子のふりをしてもらっていた僕の側近だ。名はフェンリオという」
セレナは、思わずレオニス——だと今まで思っていた狼の獣人と、目の前で“本物のレオニス王子”を名乗る男を交互に見た。
フェンリオは彼の斜め後ろで胸に拳を当てて頭を下げる敬礼の姿勢をとって、ただ、声も発さず、そこに立っていた。
「どういうことですか……?」
セレナが聞くと、真面目な顔になって、レオニス王子は答えた。
「混乱させて申し訳ありません。ですが、僕の国に来られるのに、獣人に偏見を持つような女性とは結婚できません。
だからこのような形をとって反応を見させてもらいました」
「は、反応……ですか?」
「ええ……。そして確信しました。」
あくまでも静かに言いながら、王子は席の横に立った。
「あなたは王子が獣人だからと嫌な顔をしたり、見た目で判断しなかった。とても心の美しい姫です」
そして後ろ手に隠していた花束を前に差し出し、腰を折って頭を下げる。
「僕と結婚して、ぜひ国にきてほしい」
正当な申し込みだった。
その瞬間、春のような温かい風が二人の間を吹きぬける。
花束と洗練された動作。
美しい王子。
セレナは交互にそれを見て、胸に手を当てる。そして、ほんの一度、まつ毛を伏せたフェンリオへわずかに視線を向けると、一言。
「……そういうこと、でしたのね」
小さな声でそう溢すと、顔をあげ、正面の本物の王子に向き直った。
すぅ、と息を飲む。
そして、そっと口の端を緩ませると——
「いや、それはないでしょう」
バッサリと、感情を削ぎ落とした顔で言った。
「へ?」
王子の口から間抜けな声が漏れる。構わず続けた。
「最初から試していた? いつからあなただけが選ぶ側だと思われていたのか知りませんけれど、そんな失礼な方の国になんて行きたくありません」
そして一息に。
「……申し訳ありませんが、この婚約はなかったことに」
きっぱりと言い切って、王子を見てから、もう一度、その後ろを一瞥する。
彼——フェンリオはわかっていたような顔で、気まずそうに獣らしく長い口の根本をぎゅっと噛んでいる。
残りの二人も目を合わせてこなかった。
それで十分だった。
一方で、ぽかんと開けた王子の口には、ゆで卵でも入りそうな具合。
「な、ど……どうして……普通は……」
セレナは踵を返す。
「あなたは」
去っていく際に、ただ一度だけ王子を振り返り、静かに告げた。
「最初から“誰のことも”対等に見ていなかったのですね」
その声に、諭す響きはなかった。
それきり。テラスから出ていった姫の足音が遠ざかるのを意識の端でぼんやり聞きながら、王子は花束を落とし膝の力が抜けたように椅子に座り込んだ。
それから数日後——
婚約は断った。しかし外交は必要だ。帝国との使節団の行き来は続いている、そんな中。
「フェンリオ様、いかがですか? あの件、考えていただけまして?」
セレナが問いかけるのは、あの白い狼獣人。ぴんっ、と一瞬だけ緊張し、それから力なく落ちる彼の尾を、視界に入れて微笑む。
「いっ、いえ、その……っ。ただ、私には勿体無いお話で、正直、まだ……」
たじろぐ声。白い毛に埋もれた顔ではその下の色はわからない。しかし確かにいま彼の頬は真っ赤にそまっていた。
「フェンリオ様——あなたは、王子のふりをされている間、決して私との距離を誤りませんでした。常に冷静で突き放した態度を取られていたのは、私に、万が一、気を持たせてはいけない、そう配慮してくださったからでしょう?」
セレナは静かに、しかし畳み掛けるように彼に近づく。
「そういうところを好きになってしまったのです。……結婚するのであれば、あなたとがいい」
あまりにストレートな告白だった。
「それが無理なら、私の国に来てくださいませんこと? ちょうど強い兵士を募集していて」
「わ、私は王子の側近です」
「まあ、忠誠心が高いのですね。素敵です。ではやはり私がそちらへ」
「っ……わ、私は一国の姫と添えるような身分では……」
「ですが、あちらの侯爵様なのでしょう?武勲もおたてになっている」
「ぐ……」
「わたしのほうは、ほら、冷遇されている姫ですから、誰と結婚しようと正直、気にされませんわ。ギリギリ圏内です」
「う……」
理屈でそうも詰められては論理的な否定はもはや通じそうにない。ぐうの音も出ないとはまさにこのことで、フェンリオは言葉に詰まる。
するとそんな彼を見て、セレナは少しだけ視線を外す。詰めていた距離を戻し、それから、つぶやくように言った。
「とはいえ」
先ほどまでのまっすぐな圧がすこし落ちる。
「単に、私が」
ひと息。
「あなたのお好みではないということでしたら、潔く……」
「!」
彼女の口から、引こうとする言葉が出た。その瞬間、彼はハッとして一歩出る。
「それは違う!」
吠えるように言っていた。
「あなたは、私から見ても可愛らしい人だ!」
「ただ、あなたに負わせてしまう苦労を考える……と……」
言ってしまった、と気づいたのは一拍遅かった。
きょとんとした姫と目を合わせ、彼は一瞬、その場で硬直すると、観念したように真っ赤になった自分の顔を両手で覆った。
✳︎
一方その頃、自国の城に帰ってもまだ、王子のほうは首を傾げていた。
「何がだめだったんだ……?」
「獣人たちのためだったはずなのに……」
その後ろに仕える黒豹と馬人は互いに目配せしたあと、軽く肩を落とし、小さく首を振った。
時々こういう展開を見て、いや、もふもふハッピーエンド良いでしょう!?と思ったので書きました。
無骨に見えて、推しに弱くて照れる狼さん……可愛すぎると思うのは作者だけでしょうか。
王子も悪い人ではないのですが、
セレナはあくまで“誠実さ”に惹かれました。
お読みいただきありがとうございました!




