第三章 「ジュリエッタが落ちていく欲望の沼」」②
喉からこぼれ落ちた声は、計算されたものではなかった。
この瞬間、彼女は確かに「皇女」であり、ハウゼンの国王の「孫」だったのである。
国王の骨ばったシミと皺のある指先は、流れる血が無いかのように冷たい。
「おおぉ、我が孫、アンジェ……アンジェよ」
国王ハウゼンの両目から伝う涙が、ジュリエッタの良心にチクリとした痛みをもたらしたが、周囲のすすり泣きに飲まれることなく、良心を振り払い、アンジェに成りきった。
感動の対面シーンを前に、ダンテス伯爵と伯爵夫人、妹のジェリエッテは、涙の出ない目元にハンカチを当て、感極まった様子を装う。
ガイは相変わらず、うつむいたままだが、周囲の人々には、涙をこらえる兄に見えていた。
「おお、なんと美しい光景だ」
「アンジェ様、ようございました……」
国王ハウゼンの前で、うっうっと嗚咽して、はらはら涙をこぼすアンジェを見て、侍従長ヨハネスの胸には、一抹の不安が押し寄せた。
(……あの瞳も銀髪も、確かに外見は亡きフォール殿下に酷似している。だが、言葉の端々に滲むのは、育ての親の影か……皇女様が、伯爵の傲慢と強欲さの影響を受けていないといいのだが……)
「もっと私が早く、おじいさまに御会いしていましたならば、おじいさまを苦しめることはありませんでしたのに。可哀そうな、おじいさま……」
侍従長ヨハネスは片方の眉をぴくりと動かす。
(やはり皇女様の物言いが気になってしまう。……権力と財力に物をいわせ、独裁政治を行った先々代の国王。幼少期に親戚筋の公爵家に身を寄せ、傀儡政治の道具とされた。その結果、青年期には人間不信となり独裁政権に走り、圧政と迫害の恐怖政治を行った……皇女様が、ダンテス・クレイモン伯爵と直接的に血の繋がりが薄いとしても、権力は人を狂わせる……これが単なる杞憂に過ぎなければいいのだが……)
伯爵もまた、感動のご対面シーンの展開に頬が緩んでしょうがなかった。
(……全く、この世は面白い。女中腹の娘が「皇女様」で、その「皇女様」を我が娘と入れ替えて、差し出した結果が、これ、この通り、涙のご対面だ。……そうして、俺は、クレイモン伯爵家に類ない繁栄と栄華を納める当主になる。クックック……思い知るがいい、ハウゼン。これまで多大な税を課して、うちの山から取れる大量の金を、当たり前のように奪っていったツケを必ず払わせてやるからな……ジュリエッタが女王になれば、鉱山経営にかかる税など形骸だ。金の輸出制限も撤廃させてやる。ヴァレーの鉱物を元手に、皇室を凌ぐ財力を体に入れるのも時間の問題だろう……これからは俺の時代だ、ダンテス・クレイモン伯爵様のな……)
(感動も何もない……欺瞞)
一方、ガイは国王ハウゼンの涙を見て思う。
(アンジェだけが置いていかれた。何も知らされず、理由も告げられず、留守番を命じられた、アンジェ……僕は伯爵の命令に従うしかなかった……目の前に繰り広げられている皇室への反逆行為を止める勇気すらない……なんて惨めなんだ)
(アンジェは、帝都へ向かう馬車にクレイモン一家全員が乗車したあと、走り去る馬車にずっと手を振っていた。前の晩、伯爵夫人が大量に用事を言いつけられているのに、けろっとした顔をして、「のんびり出来ちゃう~」と喜んでいた、素直で優しいアンジェの顔が目に浮かぶ。……)
(「この真実を話せば、アンジェを生かしてはおかないぞ、いいか、わかったな」……伯爵の脅し文句が、馬車の揺れとともに何度も脳裏へ木霊した。道すがらの森でギャアギャアと叫ぶカラスの声、黒いマントの男が、こちらをじっと見ている様子も不吉の前兆に感じた……僕が真実を話さないからと言って、必ずしもアンジェの命が守られる保証なんて、どこにもない……残酷過ぎるだろ、こんなの……)
(それでも、今は沈黙を選ぶしか道はない……国王よ、あなたは、目の前にいる女が、本当に血の繋がりのある孫だと思われているのですか。あなたに直観はないのですか……。偽りのアンジェがここにいる……悪夢だ……反逆行為に加担した罪を、僕は一生背負わなければいけない……)
(ジュリエッタ。あいつ自身は消えたが、なにも失っていない。失うどころか、アンジェの「生」を搾取している。おまえの薄っぺらい泣き顔の下にある底意地の悪さ。……この茶番劇には反吐が出る。……僕は、アンジェを守り切るために、どう生きて行くかを考えなくては……贖罪を背負いながら……)
国王の前では、ずっとウッウッと泣き声を上げる偽皇女のジュリエッタが涙ながらに言う。
「アンジェは、この先の人生を、全て、おじいさまに尽くして生きていきます」




