第二十章 「恋煩い(こいわずらい)」③
それなのに――。
黒狼がアンジェ(川野)の足元に伏せ、満足そうに目を閉じる。
その姿を見下ろしながら、バルジャンは小さく息を吐いた。
「……じゃ、おやすみなさい……バルジャンさん……おいで、ルゥ」
(……また黒狼を寝室まで連れて行くのか……)
「あっ……ちょっと待ってアンジェさん」
アンジェのベッドの下で野生の獣が眠っている事実が、バルジャンの心をかきむしる。
乙女の寝所に獣の匂いが混じり……獣の汚れた舌に彼女が舐められることへの生理的な嫌悪……いやそんな建前以前の話だ。
自分ですら踏み込んだことのない彼女の最もプライベートな空間に、この獣が平然と居ることへの不快……嫉妬に他ならない。
「アンジェさん。うら若い乙女が、いくらベッドの下といえども、野生の獣をこれほど近くに置くのはどうかと思います。安全面でも、衛生面でも……アンジェさんが寝ている間に噛みつかれでもしたら……」
バルジャンは、抑えきれない棘を言葉に乗せてアンジェ(川野)に告げた。
しかしアンジェ(川野)は困ったように眉を下げ、ふわりと微笑むだけだった。
「もう、考え過ぎですよ、バルジャンさん。ルゥは私のことを襲ったりなんてしませんって」
「断言できますか」
今夜のバルジャンは、ひるまなかった。
もはや冷静さはない。
一人の男としての余裕のなさが滲む。
その時、アンジェ(川野)の足元で丸まっていたルゥが、音もなく頭をもたげた。
金色の瞳が、品定めをするようにじっとバルジャンを見つめる。
「ルゥにとって、私は相棒なんです。ルゥもきっとそう感じているからこそ、わざわざ森の奥から鹿を狩って、こんな遠くの教会まで届けてくれるんですよ。私が生活に困っているのを知って助けてくれる……。私にとって、ルゥは、何よりも頼りになる相棒なんです」
アンジェ(川野)が慈しむようにルゥの毛並みを、また撫でている。
その光景は、バルジャンの胸に鋭い杭を打ち込んだ。自分も彼女のために最善の力を尽くしている。この数日、彼女とともに「避難所」を支えてきた、その自負が一匹の獣に劣るというのか。
バルジャンは喉の奥が焼けるようなショックを受けながらも、震える声を絞り出した。
「……ルゥはアンジェさんの相棒……では、私は……」
と、言いかけて、バルジャンは溢れ出しそうになった言葉を飲み込んだ。
言えなかった。
その先にある言葉を聞くのが怖かった。
「やだ、バルジャンさん。あなたは私の相棒じゃないですか。初めて出会ったときから、今も」
うふふ、と悪戯っぽく微笑む彼女の瞳には、一点の曇りもない信頼が宿っていた。
相棒。
それは彼女にとって、命を預けられるほど深い絆を意味する言葉なのだろう。
だが今のバルジャンにとって、その言葉は甘い蜜のように欲してやまない麻薬となった。
自分を特別な存在だと認めてくれた歓喜の波と、結局はあの「獣」と同じ枠組みに括られているのだという絶望の波が交互に押しては寄せ、寄せては返す。
その時、二人の会話を遮るように、黒狼ルゥが、ウゥーッと短く、ごねるように鳴いた。
黒狼ルゥはアンジェ(川野)の顔をじっと見上げ、自分を無視して話に夢中になっているのが不満だと言わんばかりに、そのしなやかな体躯で彼女に飛びついた。
「きゃっ、もう、ルゥ! わかった、わかったから……」
アンジェ(川野)はよろめきながらも、愛おしそうに巨大な黒狼の首回りに腕を回し、その漆黒の毛並みに「うーん……ルゥ、もふもふぅ」と言いながら顔を埋める。
月光の下、銀色の髪と黒い毛並みが混じり合い、一頭の獣と一人の乙女が完璧な調和を持って抱き合う光景。誰も入り込む余地がない。
バルジャンはその光景を、言葉もなく見つめるしかなかった。
自分も「相棒」だと彼女は言った。
だが「相棒」とはいえ、あんなふうに無防備に身を投げ出し、互いの体温を分かち合うように抱き合い、キスをしたことなどない。
(……本当に、私も相棒なのだろうか……)
アンジェの腕の中で満足げに目を細める黒狼が、自分よりもずっと深く彼女の魂に寄り添っているように見えて、バルジャンの心は夜風よりも冷たく、切なく冷え切っていく。
彼女の視界の中に自分はいない。
黒狼に向けられるアンジェの柔らかな眼差しを見るたび、胸の奥に芽生えた感情は、焦り、苛立ち、彼女を独占したいという強い願望へと変わる。
彼女と共に生涯を過ごせるのなら、治癒魔法師を辞めてもいい、実家のパーシモン公爵家で跡を継いで領主となり、愛するアンジェと我が子、そして敬愛する両親と暮らす道を選ぼう。
アンジェと子どもたちが、楽しくピアノを弾いている我が家。
初恋は叶わない、と人は言う。
けれど、いつか、その夢をこの手で叶えたい。
黒狼と去っていくアンジェの後姿にバルジャンは呟いた。
「……君が好きだ……君が欲しい、アンジェ……」、と。




