第二十章 「恋煩い(こいわずらい)」②
アンジェ(川野)もまた、バルジャンの額に思わずキスしてしまったことで、『金髪』『細身』『高身長』『西洋人』……ワードが頭の中をくるくる回り出す。
突然のアクシデントはバルジャン同様、アンジェ(川野)の顔も赤く染めた。
バルジャンは少年のように狼狽し、もぞもぞ視線を彷徨わせる。
舞踏会での振る舞い以上に、目の前の少女とどう目を合わせればいいのかが分からなかった。
先にアンジェ(川野)が声をかけた。
「本当に、ごめんなさい……あの、わざとじゃなくて……じゃ……また……」
困ったような微笑みを浮かべ、小さくお辞儀をすると、「……お水も確保できたみたいで……」と足早にサッと立ち去った。
バルジャンは、自分の額に残る微かな熱を指先でなぞる。
これまで、母以外の女性は理解できない存在だと思っていた。
治癒魔法師の旅に出る直前まで、バルジャンは両親の薦めも有り、自分に近い年頃の貴族令嬢と何度か顔を合わせたことがある。
彼女らも、舞踏会で声をかけてくる令嬢たちも、みな、バルジャンという一人の人間ではなく、『公爵』という家柄に群がってくるだけ。
35年生きてきた中で、身近にいた女性を好きになったことは一度もない。
そもそも女性と交際した経験もなかった。
だが、この突発的ともいえる接触は、バルジャンの心に隠されていた氷結した感情を瞬時に凍解させた。彼女の柔らかで繊細な女性の身体、透き通るような白い頬、薄桃色に艶めく唇。少女としての「彼女」ではなく「聖女候補者」でもない「一人の女性」として求めたい、という欲望があることを今さらながらに気づいた。
人生経験もそこそこあり、治癒魔法師として磨いてきた技術にも自信があったバルジャンだが、その経験値も技術力でさえ、17才の少女の魅力の前に吹き飛んだ。
夜、焚き火の傍で、バルジャンは一人、月を見上げた。
もう一度、あの唇に触れたい、今度は額ではなく、唇を重ねたい……。
煌々と光る月が彼の理性を震わせる。
額の醜い傷跡を微塵にも気にせず、ありのままに受け入れてくれる少女のことだけを想う。
そこへ笑い声が聞こえてきた。
「ちょ、ルウ、くすぐったいってば」
振り返ったバルジャンの瞳に、黒狼に頬を舐められ、くすくす笑うアンジェが映った。
柔らかな笑い声が教会の外にまで弾み、教会の奥から洩れるランプの光がステンドグラスに揺らめく。
その光景はバルジャンの胸の奥にチクッとした痛みを走らせた。
(……やはり、おかしい)
何度見てもそう思う。
野生の黒狼が、人の言葉を理解し、人の感情を汲み取るように振る舞う。
アンジェの声色ひとつで尻尾を振り、彼女が離れれば名残惜しそうに喉を鳴らす。
あの獣は独占欲めいたものを帯びている。
まるで彼女を、生涯の伴侶に決めた、番い(つがい)の雌とでもいうべき対象に見ている気がする。
しかも夜になれば当然のようにアンジェのベッドの下で丸くなって眠る。
棲み処の森でもなく、教会の冷たい石床ではない、彼女のすぐ傍の木の床で。
これまで治癒魔法師として、多くの人々の傷を癒し、救うために己の人生を費やしてきた。
人々が犬や猫に対する愛情も十分理解している。
けれどあの黒狼はどこか違う。
なぜか理性で判断できない、その何かがバルジャンの胸を苛立たせる。
人間の自分が野生の獣に嫉妬するはずなどない。
それなのにアンジェが黒狼に向ける無防備な信頼と、彼女を独占しているかのように、抱き合い、口づけする触れ合いを見るたび、胸の内がささくれ立つ。
「バルジャンさーん……」
アンジェ(川野)が、焚火にあたるバルジャンを見つけ、手を振りながら、近寄って来た。
黒狼もぴったり側にいる。
黒狼はアンジェの方を見つめて、くぅんと甘い声で鳴く。
鳴き声に気づいたアンジェ(川野)が「はい、はい」と黒狼の首元を撫でる。
「バルジャンさん、こちらにいたんですね」
「……ええ、先程、鹿の解体が終わったので……一休みです」
自分でも驚くほど、声が硬い。
(たかが一匹の獣に、なぜこれほどまで不快な感情を抱くのか……)
アンジェ(川野)は首を傾げながらも「お疲れ様です」と微笑み、また黒狼に視線を戻した。
(黒狼ではなく……私を見ていてほしい……アンジェさん……)
そんな独占的な願いが、はっきりと言葉にならないまま、胸の奥で熱を持つ。
最近では、神父と話すアンジェ、領民の男と笑い合うアンジェ、そのすべてを目で追ってしまい、苦しくなる。
これまで、女性を「自分のものにしたい」と思ったことなど一度もなかった。




