第十九章 「託された命の始まり」①
今から遡ること35年前。
サンクロニア世界記915年。
ヴァレー国の西側の大半の領地をパーシモン公爵家は所有していた。
公爵家の屋敷は潮風が岩肌を削る海沿いの切り立った崖の上に建てられており、屋敷の中にまで海鳥の鋭い鳴き声が響く。
嵐の日には屋敷中、岩に砕ける波の轟音に包まれるが、この日は波も凪ぎ、穏やかな春の光が窓から差していた。
マゼラン・パーシモン公爵は、冷たくなった我が子を、そっと胸に抱いた。
腕に残るのは、わずかな重みだけ。
産声は一度も聞こえないままだった。
10年待ち続け、ようやく授かった命は、生まれてすぐに終わりを迎えた。
(儚い重みだ)
マゼラン・パーシモン公爵の眼頭が熱くなる。
昨日までの希望と期待は、公爵の心の中へ、鉛色で覆われた雲のように拡がっていく。
窓辺の明るい光りとは裏腹に、部屋の中は何よりも重く、耐え難い沈黙が漂っている。
(これが希望したことへの代償なのか……)
公爵は腕の中の我が子から妻のアデルへ視線をやる。
アデル・パーシモン公爵夫人はベッドへ横たわったまま天井を見つめていた。
彼女の頬には涙が幾筋も流れては、枕へと滴り落ちていく。
公爵は思う。
私たちはこの10年、どれほど聖女に祈りを捧げ、子どもが出来ると言われる薬をのみ、子どもが生まれやすくなるという絵画など買い求めてきた。
そしてようやく授かった命。
世継ぎを一族から迎え入れるよう厚かましく要請してくる親族や、領民たちの心ない噂。
それらすべてが、払拭される日であった今日、我が子の命は朝の露と消えた。
「せっかく授かった子どもなのに……どうして私たちは子どもに恵まれないのかしら……」
アデル・パーシモン公爵夫人の泣き疲れた声が静寂の中に落ちた。
責めるわけでもなく、怒るわけでもない、ただ途方に暮れた問いかけだった。
彼女は夫の方を見ることができない。
夫もまた声を殺して泣いているのがわかるから。
公爵は妻アデル・パーシモン公爵夫人のベッドの横に用意してあった揺り篭へ、命の灯が失せた我が子を横たえた。
丁寧な手つきは、まるで壊れやすいガラス細工を扱うようだ。
公爵は夫人の傍らに立ち、彼女の頭に自身の大きな手をそっと添えた。
先日まで、夫婦二人で未来を思い浮かべ、子どもの名前まで決めていた。
それら全てが、今は胸を締め付ける記憶となり、重くのしかかる。
「おまえのせいじゃないよ、自分を責めるんじゃない。……噂だが、街はずれの宿屋に泊まっている占い師の占いが、よく当たるそうだ。もしも、占いで子どもが出来るんだったら……どうだ、騙されたと思って、一緒に行ってみるか」
占い師の話は、数日前に執事が話していたものだった。
その時は「生まれてくる命」のことだけが心に占められ、他愛もない話だと聞き飛ばしていた。
が、今は、この苦しみに折れそうな気持を支える「何か」にすがりたい。
理性的な公爵にとって、占いに頼ることなど皆無に等しい。
しかし今の彼は愛する妻が絶望の淵に沈み込んでいくのを黙って見ていることができなかった。
それがたとえ「意味のない何か」であっても、妻にとっても、自分にとっても、明日を生きていくための「理由」が欲しかった。
夫人はゆっくりと長い睫毛の瞼を閉じた。
「そうね……占ってもらったら、少しは気休めになるかもしれないわね」
彼女は夫マゼランの掌から伝わる、微かな震えを感じとっていた。
彼の震えは「二人で乗り越えよう」そう言っているようで。
妻のアデルも夫同様、占いや迷信に興味を示したことがなかった。
子どもの頃から厳しく躾けられた、公爵夫人となるために積み上げられた教養。
論理的でない事柄など、注意を傾ける対象ではない。
けれど今回ばかりは、気持ちの揺らぎが止まらない。。
(……また、子どもを授かる日を待ち続けなければいけないの……)
窓の外には、どこから集まって来たのか、数羽のカラスがギャッギャッと鳴き騒いでいる。
我が子の死を察知して集まってきた、おぞましいカラスたちの声で心まで砕けそうな気がする。
アデル・パーシモン公爵夫人は夫の手に、自分の手を重ねた。
パーシモン公爵夫婦が、藁にもすがる思いで訪れた宿屋の一室に、黒いマントの男がいた。
顔は目深に被られたフードで見えない。
黒いマントの男は、自分の元へ近づくマゼラン・パーシモン公爵とアデル・パーシモン公爵夫人の足音が止まったところで、
「金貨三枚だ……親子の縁を結びたいのならね……」と、低い声で不躾に呟いた。
金貨3枚と引き換えに告げられた言葉は、とても奇妙な内容だった。
「半年後の新月の夜、東の森を抜けた先にあるロンメル公爵邸を訪れるがいい。公爵家で男児が生まれるだろう。養子に出される、その子を迎えよ」と。
占い師の言葉は、絶望の底にいた夫妻にとって、切れそうに細い蜘蛛の糸をつかむような内容だった。
平民の子であれば、躊躇ったかもしれない。
しかし公爵家の血を引くという一点が、夫妻の背中を押した。
半年後、二人はロンメル公爵邸を訪れた。
内陸にある公爵邸は深い森に囲まれ、静謐な空気に満ちていた。
しかし、出迎えた侍女や使用人たちを始めとして、邸内の空気は、どこか張り詰め、隠しきれない悲壮な気配が漂っている。
アデル・パーシモン公爵夫人は、二階の窓から二人の少女がカーテンの隙間から、こっそりと覗いている姿を見て取ると、少女たちはさっとカーテンの奥へと隠れた。
重厚な扉が開くと、ロンメル公爵夫人が姿を現した。
年の頃は四十も半ばを越しているように見える。
彼女はやつれ、その瞳は赤く腫れ上がっていた。
腕の中には、純白の産着に包まれた、生まれてから数日と経たない子どもが寝息を立てている。
ロンメル公爵夫人は、震える足取りで、パーシモン公爵夫婦に歩み寄り、命の灯火を差し出すような苦渋の顔で、涙ながらに訴えた。
「どうか……どうか、大事に育ててください、お願いします。この子は……この子は、ここで生きることが叶わないのです」
妻のアデルが公爵夫人の手から、男の子を受け取る。
その瞬間、彼女の全身を雷に打たれたような衝撃が駆け抜けた。
胸に伝わる柔らかな重み、吸い込まれるような温もり。
そして、何よりも彼女を驚かせたのは、その子の容貌だった。
白く透き通る肌に金髪。
そして不思議なことに、その面差しはアデル自身に酷似していた。
まるで、かつて彼女が失った子が、天の導きによって形を変え、戻ってきたかのような錯覚を覚えるほどに。
「あなた、この子……」
アデル・パーシモン公爵夫人の声は震えていた。
喜びと戸惑いに驚き、それらが一気に押し寄せる。
隣に立つマゼラン・パーシモン公爵もまた、息を呑んだ。
半年前、揺り篭へ置いた命の消えた我が子が、時間を超えて、再び、戻ってきたようだ……。
第十九章では、バルジャンの出生の秘密が明かされます。
生みの母はロンメル公爵夫人。
このロンメル公爵夫人の娘がマリーネ・クレイモン伯爵夫人……そうなんです、アンジェを鞭打ちしていて、「泥棒猫!」と叫んでいた女性。その女性の弟が……治癒魔法師のバルジャンでした。
金貨3枚で妊娠できる薬……については、第5章③と第15章②でも書いています。
「第五章 伯爵家夫人の心の傷と占い師③」
「第十五章 愛(片想い)の結晶 ②」
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