第十四章 「生涯ただ一人の……最愛の女性」②
サンドラは、授業を続けているときでも、”愛”を語るドイトの心情が、少年期特有の激情だと割り切り、努めて無視しようとした。
けれども、これまで生きてきた34年、男性との交際経験もないサンドラにとって、”愛している”の言葉を寄せられているのは、幸福でもあり、その想いに応えたい気持ちを潰せなくなってしまった。
ドイトが18歳になった年、当主の公爵が急死し、運命は皮肉にも、彼を味方にした。
当主ドイト・エンゲル公爵となった彼は、すべての反対を押し切り、37歳のサンドラを妻に迎えた。
子どもはいない夫婦だったが、貴族では、稀に見る愛人のいないオシドリ夫婦だった。
その冬、ヴァレー国には流行り病で亡くなる者が相次いでいた。
冬の夜気は、病室の中にまで忍び込む。
ドイト・エンゲル公爵は、ベッドで高熱にうなされ、浅い息を繰り返す妻サンドラの側にいた。
彼女の指先は氷のように冷たい。
ドイト・エンゲル公爵は、妻の手をさすり続けた。
うわごとのように閉じていたサンドラの唇が、微かに動く。
「……あなた、私が死んでも悲しまないでください。……私は、あなたの妻で幸せでした。……あなたには感謝しかありません」
胸を締めつけられ、ドイトは思わず首を振る。
「なにを気弱なことを言うんだ、サンドラ。……大丈夫、そのうち熱も下がるさ……毎日、聖女様に祈っているんだ。お前は必ず良くなる」
それは祈りというより、懇願だった。聖女に祈る言葉でありながら、実際には自分自身に言い聞かせているに過ぎないと、どこかで分かっていた。
サンドラは苦しそうに眉を寄せ、かすかに笑う。
「……あなた、ごめんなさい……あなたの子どもを遺すことができなくて、本当にごめんなさい……最後に一つだけ、私の我儘を聞いてください」
苦しそうな妻の顔。公爵の眼頭が熱くなる。
「最後なんて言うな、サンドラ……」
彼女の目尻に伝う涙。サンドラは力を振り絞るように続けた。
「あなた、本当に最後の我儘です。……どうか私が死んだら、一日でも早く若い妻を迎えて、あなたの跡継ぎを作ってください……これで……あの世で……やっと、あなたの亡くなったお母様に褒めてもらえますわ……妻と認めて頂けます……」
胸の奥で何かが崩れ落ちていく。
「そんなことを言うものじゃない。母上のことは……どうだっていい。お前には、これから先も私の側にいてほしいんだ」
妻の、この手を離したくない。ただそれだけだった。
世界がどうなろうと、信仰であろうと、妻が生きていてくれさえすれば、それで良い。
サンドラは細く長く息を吸い、穏やかに微笑む。
「あなた、愛しています……どうかどうか、悲しまないで……」
その言葉を最後に、彼女の瞳は閉じ、開くことはなかった。
「サンドラ!! サンドラ!! 逝かないでくれーー」
叫びは石壁に反響し、虚しく消える。
握りしめた手は、もう二度と応えてはくれない。
祈りも、愛も、すべてが届かなかった現実だけが、公爵を冬の夜の底へと落としていく。
ドイト・エンゲル公爵は、その場で膝を折り、声が枯れるほど、サンドラの名前を呼び続けた。
その夜の公爵家は沈痛な叫びで覆われた。




