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第十四章 「生涯ただ一人の……最愛の女性」①

ドイト・エンゲル公爵は、脳裏に響く妻の声を聞き、左手の薬指に嵌めた銀色の結婚指輪を見つめた。



穏やかに光を跳ね返していた結婚の色は鈍色にくすんでいる。



(この指輪は私が死ぬ時まで外すことはないだろう……)



妻のサンドラがこの世を去ってから、何年も経つ。

いつしか数えることもやめてしまった。



――彼女と出会ったのは、自分が十歳のとき、貴族教育が始まる年だった。



エンゲル公爵家には、複数の家庭教師が雇われており、その中に、のちに妻となるサンドラ・カゼイン男爵令嬢がいた。



サンドラ・カゼイン男爵令嬢は当時29歳。



カゼイン男爵家の長女で、妹はすでに嫁いでいた。ドイトは彼女を他の家庭教師と同じだと思っていた。



(どうせ、父上や母上に取り入るために、笑って教えるだけの大人)



実際、サンドラが教える国文法も、皇族史も、彼にはひどく退屈だ

った。授業中、居眠りをしていてもサンドラは叱らなかった。




いつも淡々と静かに授業を進めるだけの家庭教師。




サンドラ・カゼインがドイトの家庭教師となり、二年が過ぎた。



授業の一環で、王宮の皇室図書館へ本を選びにいくことになった。

その日は、運悪く、市場で騒乱が起き、通路が塞がれていたところが塞がれてていたところへ、貴族の馬車が停まったのである。



馬車には、御者、侍女とサンドラにドイトの4名のみ。



貴族への反感があるのだろう、住民数人がバラバラと馬車の前に集ま。口々に叫ぶ。



「おい、降りてこい」


と、突然、男の一人が馬車の扉を開く。



男は馬車の扉を足で蹴る。

揺れた馬車の中、ドイトは震えた。



「さっさと、降りろっつてんだ、貴族様よぉ。おまえら、俺たちのお陰で良い暮らしをしやがって」



数人の男が馬車の車輪を蹴ると、怯えた馬が鼻息を荒くする。



男たちは酔っているのか、大声で口汚い罵りを浴びせてくる。

御者と侍女は、その場から一目散に逃げだしてしまった。

震えるドイトとサンドラが、ゆっくりと馬車から降りた。



男の一人が、ドイトの服を掴もうとしたとき、サンドラは男の手をぴしゃりと叩いた。



「いきなり、なにをするんですか。理不尽な行為はおやめください」

毅然とした声。



それはドイトが初めて聞く、彼女の強い芯だった。



ピシャン。

男がサンドラの頬を平手打ちし、サンドラの影にいるドイトへ怒鳴る。



「こっちこい、小僧ぉ!! 」



サンドラはドイトを抱きしめたまま、四つん這いになって、地面へ突っ伏した。ドイトを身体の内側に抱えて。



「上等じゃねぇか」


「ガキごと、痛めつけてやれ」



サンドラの身体の下で、ぶるぶる震えるドイトは、男たちに、嫌というほど、蹴られているサンドラが歯を喰いしばる姿を見て、怖いよりも胸が苦しくて、たまらなかった。



12才のドイトは思う。

両親でさえも、こんなふうには守ってはくれない。



王宮騎士団が到着し、事態は収束したが、屋敷に戻ったあと、サンドラは幾ばくかの見舞金を出され、家庭教師の職を追われた。

公爵家の長男が家庭教師に守られて事無きを得たなどの醜聞が世間に取り沙汰される前に手を打ったのだった。




ドイトは何度も両親にサンドラを戻すよう願い出たが、拒絶され続けた。

根気よく懇願したドイトに負けて、サンドラが家庭教師に復活したのは、2年後で、ドイト14歳、サンドラは33歳だった。



ドイトはサンドラが家庭教師に戻って以来、真摯な態度で授業に臨んだ。



「ねえ、サンドラ。この文法表現は、どう考えればいい?」


「いい質問ですね。では、例文を見てみましょうか」



サンドラの穏やかな微笑みはドイトの心を温めた。




「……好きだ」

と、15歳の春、ドイトはサンドラへ告白した。



両親から大反対を受けたが、ドイトは、「サンドラと結婚する」と言ってきかなかった。



「ドイト、冷静になりなさい。一時の感情に従えば、人生は失敗するのですよ」

 父よりも母が猛烈に反対の姿勢を崩さなかった。



ドイトはサンドラへ、求婚したが、サンドラもまた、「どうか、公爵家の未来を考えてください」と言う。



19歳の年の差結婚事体は珍しくはない。けれど、それは男性が年上の場合であり、未婚の男性が年下という前例は無かった。

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