第十三章 「崇高な正義」②
ふわり、微風がトーマスの頬を撫でる。
庭に咲く百合が揺れ、凛とした乙女のような香りが漂ってくる。
――亡き妻の、好きだった百合。
妻もきっと理解してくれるだろう、「“崇高な正義”」に賭ける自分のことを。
一方、去っていくガイの胸中には、別の感情が渦巻いていた。
悲鳴に続き、血にまみれた負傷者、倒壊してバラバラと崩れ行く教会の惨状。
爆発の巻き添えで死んだ住民たちの中にアンジェはいなかった。
でも、もしアンジェが爆発で傷ついていたら、そう考えると、ルクス派は本当に正しいのかと疑問の芽が頭をもたげる。
ジャンは、志をひとつとする仲間を引き連れ、エンゲル公爵の元を離れ、ルクス派を支援するロンメル公爵の元に身を寄せる気でいた。
(トーマスとエンゲル公爵に騙されたも同然な教会爆破……これからは……俺がルクス派を先導していく)
拳を握りしめて心を燃やすジャン。
その決意が、やがてさらなる分岐と衝突を生むことを、まだ彼自身は知らなかった。
ただ一つ確かなのは、“崇高な正義”という名の刃が、すでに抜かれてしまったという事実だけだった。
二階にある執務室の窓から、エンゲル公爵は庭を見下ろしていた。
朝の光に照らされ、集まっている騎士たちの鎧に光が落ちる。
その中心で、騎士長ジャンが声を荒らげ、執事トーマスと対峙している様子がはっきりと見えた。
(……やはり、こうなったか。トーマス……自ら、悪役を買って出るとは)
ドイト・エンゲル公爵は特段、驚きはしなかった。
怒りも、失望も、どこか遠い感情として心の奥底に沈殿している。
トーマスは若く経歴も浅いが、いつも的確に判断して動く。
かつて居酒屋で、同じ酒を酌み交わしながら、互いの喪失を語り合っていた頃とは違う。いまのトーマスは、公爵の片腕として育ちつつあった。
(私が口にする前に、私の考えを形にする男だ)
多少の危うさはあれど、それ以上に信頼に値する。
ジャンの爆発する怒り、ざわめく騎士たち。
決別の言葉。
騎士たちが袂を分かつのは、致し方ない。
(……見えるものしか、見ない。いや、見えていないのか)
ドイト・エンゲル公爵は目を閉じる。
オルドリア正教は、本来ひとつであるべきだった。
それがいつから枝分かれし、教義を歪め、聖女を消耗品のように扱うようになった。
(ジャンは、目先の「葉」に囚われすぎているのだな)
他派を掃討する大義。
すべては崇高な正義のためだ。
(『木』は、『葉』だけで成り立っているのではない。地上から離れ、土中に広く『根』を張りめぐらしてこその『木』だ。『根』を断たずして、どうして『木』を変えられるというのだ)
公爵の脳裏に、亡き妻の穏やかな横顔がよぎる。
病床で祈りを捧げていた姿。
あれほど敬虔で、あれほど教会に尽くしていた我々に、救いは訪れなかった。
(……聖女が、正しく管理されていれば、違う未来があったはずだ。トーマスも、同じ痛みを持つ。だからこそ、彼は迷わず刃を振るえたのだ)
窓の外は、しんと静まり返っている。
(去りたければ去るがいい。“崇高な正義”は、常に孤独だ)
ドイト・エンゲル公爵の胸に、わずかな揺らぎもない。
理解されぬことも、憎まれることも、最初から覚悟している。
正義とは、選ばれた者だけが背負える重さなのだから。
公爵は窓から執務机へ視線を落とす。
机上にはインクが乾ききらない書簡と、生前の妻の愛読書である教義書が積まれていた。
「私は、あなたの妻で幸せでした」
脳裏に響く、妻サンドラの声。
(サンドラ、私たちは、光と共に、“崇高な正義”の側で立ち続けるよ)




