第十二章 「チートスキル」④
ピアノの鍵盤に指を降ろすと同時に現れる50インチほどのスクリーン。
アンジェ(川野)の頭上にあスクリーンは、周囲の人間には見えないらしい。
映像がスタート。
洋館の一室、黒いグランドピアノの前には若きモーツァルト夫妻。
「始まりはイ短調にしよう」モーツァルトは、彼の肩を抱く、妻のコンスタンツェに語りかけている。
コンスタンツェがモーツァルトの耳元に囁く「あのパレードは印象的だったわね。オスマン帝国の軍楽隊」コンスタンツェが思い浮かべる映像に画面が切り替わる。
ウィーンの街並みに、太鼓を叩き、旗を掲げて行進してくる軍楽隊。
頭には白いターバンを巻き、赤や白、青の軍服姿の軍人と騎馬に跨る軍人が交互に進んでいく。
オスマン帝国の軍楽隊は、沿道に集まった市民から拍手を送られている。腕を組んで見つめているコンスタンツェとモーツァルト。
モーツァルトは「あれだ、軍楽風にしよう……最後は軍楽っぽくイ長調だ」。
そしてピアノの鍵盤に指を置くモーツァルトは、手を休めることなく、トルコ行進曲を作りあげていく。
(……あのパレードを見て作ったんだ、この曲……さすが天才モーツァルト……迷いもなく、書き直しもない一発勝負で作ってる……この指もまた軍楽風のテンポを崩さずに軽やかに弾いている……)
アンジェ(川野)の後ろでは、領民の男女、子どもが手を取り、曲調に合わせて、踊り始めた。
笑顔の輪が広がっている。神父もバルジャンも、にこやかに眺めている。
(なんか平和だな……)
教会の入り口では、森から戻ってきた黒狼の耳にもピアノの演奏が届いていた。
アンジェ(川野)がピアノを弾き始めてからずっと。
ピアノの演奏を聴いているうちに、いつのまにか黒狼は尻尾をぶるんぶるんと振るわせていた。
くわえている鹿の重さも忘れ、甘い香りの少女から目が離せなかった。
---ヴァレー国 ウンデルの森---
黒狼はウンデルの森に戻っていた。
甘い香りの少女が欲しいといった「兎」を狩るつもりだったが、食料不足なら「兎」では足りないはずだ、そう思い直し、「鹿」を狩った。狩りはいいが、運ぶのには時間がかかる。
でも少女のためにと、教会まで鹿を運んだ。
黒狼が教会に着くと、少女がピアノを弾いていた。
美しい曲。
身体が動かない。
人間だった頃も、黒狼のいまも、こんな経験はない。
初めて知る感覚だった。
ピアノを弾き終わった少女が、黒狼を見つけ、手を振って近寄ってきた。
「うわぁっ、鹿!! 重かったでしょう。ありがとう、黒狼さん。助かるう」
そう言って少女は、黒狼の身体にがばっと抱きついた。
甘い香り、銀色の柔らかな髪が漆黒の身体に触れ、柔らかな白い肌の温もりが黒狼の全身に広がっていく。
少女に包まれている心地よさに、尾がバタバタし、喉からくぅーんと情けない声が漏れ、耳が後ろに垂れる。
(……幸せだ。黒狼になって初めての幸せな時間だった……甘い香りの少女……昨日は俺を見て震えながら祈っていた。それが、たった一日で、こうも変わるものなのか。……少女に何があったんだ。不思議だ……ありがとうと言って無防備に抱きついてきた少女……アンジェと呼ばれていた少女……昨夜から、ずっと彼女のことばかり考えている。俺は、人間に戻れる時間は短く、狼である時間は長い)
(期待するな、と何度も自分に言い聞かせてきたはずだ。愛されるはずがない。呪いが解けるはずがない。そうやって、希望を切り捨てて生きてきたはずなのに……アンジェの香りに、アンジェの声に、アンジェの温もりに、俺のすべてが引き寄せられる……亡くなった母は、よくピアノを弾いていた……城の奥で、俺だけのために……あの音は、幼い俺にとって、世界でいちばん安全な場所だった。……アンジェの弾く音も、同じくらい心地いい。懐かしくて、温かくて、胸の奥がじんわりと痛む。この身体に涙腺があるのか……眼頭に熱いものが溢れる……俺は、彼女に近づいていいのだろうか……期待してもいいのか……俺を永遠に愛してくれるだろうか……)
黒狼は前肢に頭を乗せて目をつぶった。
次の満月……人間に戻ったらアンジェに会いに行こう。
いつもは目をつぶると、すぐ眠りに落ちるのに、今夜は眠れそうにない。
止まない虫の声……森の夜が長く感じる……。




