第九章 「オルドリア正教会-光の刃」②
---エンゲル公爵家 屋敷---
エンゲル公爵の執事トーマスは、扉を開けて、屋敷の庭へと出た。
胸の奥に、鈍いジクリとした痛み。
トーマスは35歳。
執事としては若かったが、人生で大事なもの全てを失っていた。
彼の前職は、オルドリア正教会オルドリア・ドミナス派の神父。
物心ついた頃から教会に通い、祈り、学び、疑うことなく信仰を受け入れ、成人して迷わず神父となった。
神父となったトーマスは、朝夕欠かさず聖女に祈りを捧げた。
それなのに、妻は、出産で命を落とした。残された娘を男手一人で育てていたトーマスだったが、娘はわずか四歳で流行り病に倒れた。
娘は熱に包まれた小さな身体で、病と闘っていた。
治療も医術もない世界、そして治癒してくれるはずの聖女がいない時代に入っていた。
弱々しく父の指を握る娘の手の感触を、トーマスは今でも忘れられない。
あの夜も、彼は祈った。
声が枯れるほど、聖女様を呼び、懇願し続けた。
(……それなのに、聖女様は、何もお応えにはならなかった)
まるで、最初からトーマスの信仰など存在しなかったかのように。
妻も、娘も、静かに、そして無慈悲にも命を奪われた。
神父である意味が、音を立てて崩れ去っていく。
教会を後にし、聖衣を脱ぎ捨てたトーマスは酒に溺れた。
夜な夜な居酒屋で深酒を浴びるように飲み、祈りの代わりに酔いに沈む日々を過ごした。
そこで出会ったのが、ドイト・エンゲル公爵だった。
彼もまた、妻を失い、深く傷ついていた。
公爵がトーマスに語る。幼い頃から今までの篤い信仰と莫大な献金。
それでもなお不幸を与えられなければいけないのか、と。
聖女を篤く信仰してきた者同士が奇妙に共鳴した。
(信仰に裏切られたのは、自分一人じゃない)
元神父だったトーマスは、身分は違っても、エンゲル公爵をつき離すべきではない、そう感じた。
エンゲル公爵の執事として仕えるようになったのは、職を得るためだけではなく、同じ心の痛みを持つ者として、彼の元に留まる道を選んだのだ。
トーマスがドイト・エンゲル公爵の執事となって、しばらくたった頃。
オルドリア・ルクス派を名乗る神父が、公爵の屋敷を訪れた。
「”崇高な正義”」
「聖女が持つ力の50年は教会が管理する」
その教義を聞いたとき、公爵にもトーマスの胸に、奇妙な安堵が広がった。
(ああ……そうか、そうだったのか)
妻子が救われなかったのは、祈りが足りなかったからではない。
信じていた宗派が、歪んでいたからだ。
トーマスとエンゲル公爵は顔を見合わせた。そして悟った。
正しい信仰への道を。
サンクロニア世界の一神教、オルドリア正教の、オルドリア・ドミナス派とミゼリア派が、教義を歪め、神父が堕落し、誤った教義のオルドリア正教が、いまに至っていること、を。
歪み腐敗した二つの宗派を廃し、オルドリア・ルクス派の正しい教義を布教する。
それこそが聖女信仰の原点である、と。
朝の教会一斉爆発の音は、エンゲル公爵家の庭にも響いていた。
爆発音の余韻が残る朝の庭で、トーマスはゆっくり、目を閉じた。
トーマスの指には大量の爆薬作りで染みついた火薬の臭いが残ったままだ。
(……これは、復讐じゃない。これは、正義のための淘汰だ。力こそが正義。新しい光のため、浄化作業の通過点に過ぎない)
トーマスは、自分自身の心に、そう言い聞かせなければ、あの小さな手の感触に、心を引き裂かれてしまいそうになってしまう。
トーマスは、空に幾筋にも上がる黒煙を眺めていた。




