第七章 「満月の夜」③
何度となく、父ツオークと交わされてきた会話。
いつも最後まで噛み合わない会話、を。
(……フェルゼンか……フェルゼンを見たのは10年前だった、か……)
ルークはラント国の方を遠い目で見つめた。
あれは10年前の秋の日。
人里を離れた高台に、黒狼のルークは独り、ラント国の宮殿を見下ろしていた。
視界の先にある城は、午後の柔らかな陽光を浴びて聳え(そびえ)立ち、乗馬した護衛騎士らが城の周囲を見回っている。
城の裾野に広がる広大な畑では、領民たちが忙しなく立ち働き、実った小麦を刈り取っていた。
秋の収穫期、この時間帯にわざわざ不便な高台まで足を運ぶ者はいない。
ここは黒狼でいる時のルークが、唯一、ラント国を一望できる場所だった。
ルークがまだ人の姿をしていた時代から、ずっとお気に入りの場所。
不意に、宮殿の正面玄関に一台の豪華な馬車が止まった。
そこから降り立ったのは、父ツォーク王の三番目の妻である王妃と19歳になったフェルゼンだった。
王妃はドレスの裾を整え、近寄ってきた侍女たちが王妃に一礼する。
王妃はふっと息をつくように言った。
「……父上に認めてもらえるような……」
王妃の声は息子を諭すようでいて、慈愛に満ちた声色。
それに対し、フェルゼンは屈託のない笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「わかっていますよ、母上……悪いのはすべて私なんです。母上の美しさをそっくり受け継いだんですから……」
「フェルゼン……あなたはいつもそうやって」
王妃は呆れたように顔をしかめる。
ルークは王妃が見せた「母親」の眼差しは、自分の母の眼差しと同じものなのだろうか、と考えてみたが、もう記憶の底にも母の眼差しはなかった。
「仕方ありませんよ、母上……来る者は拒まずというではありませんか。美しいご令嬢が、私を見て頬を赤らめているのに、声をかけない方が失礼というものです」
王妃の口調が鋭くなる。
「それだから、手あたり次第と言われるんです……陰でなんと言われているのか知っていますか? 『女殺し』……だなんて、みっともない」
フェルゼンは肩を揺らしながら、愉快そうに笑う。
「アッハッハッハ……まさか、母上の口から、そのような下々(しもじも)の言葉を聞かされるなんて、フェルゼン、思いもしませんでしたよ」
フェルゼンの陽気な笑い声が、秋の乾いた空気に溶けていく。 他愛もない親子の光景が、それを遠くから見つめているルークの胸の奥を……えぐる。
ルークの母は、彼がわずか6歳の時に、この世を去った。
(……もし母上が死なずに生きていたら……俺も黒狼になんかならなかったかもしれない……)
ふと、薄れつつある母の顔がよぎる。
フェルゼンとは同じ父。同じツォーク王の血。
それなのに、フェルゼンには帰る場所があり、父も母もいる。
自分には叶うことすらない環境にあるフェルゼンは、享受されている環境が当然のように生きている。
羨望ではない。
憎しみでもない。
ルークは、ただ、切なかった。
秋風に揺れる小麦の穂も、トンボの群れも、自分同じように、穏やかな光の中にいるフェルゼン。
彼は、この先、王として、一人の男として、愛する人を得て、結婚し、家族とともに歩んでいくのだろう。
「フェルゼンは人間じゃないですか」と、かつて父に言った言葉が頭の中で何度も木霊する。
それに引き換え、自分は……魔法使いの忌まわしい呪いで黒狼に変えられた。
全身漆黒の毛、金色の瞳、不死の身体。
満月の夜に、たった一度だけ許される「人間」への回帰は、朝陽と共に獣へと堕ちる苦痛を再び突きつける。苦悩は苦悩でしか埋められないのか。永遠に続く苦悩の中、孤独の中で、心が摩耗して朽ちる、その日を待つしかないのか。
足元で虫が鳴き始めた。
ルークは少女が去っていた方角を見つめた
胸の奥。ザワザワと騒がしく波立つ感情がうるさい。
人間へ戻ったにもかかわらず、ルークは少女の甘い香りを感じている自分に、未練がましいな、と思った。
そう思いながらも、一縷の望みを持ってしまう。
朝になり、黒狼に戻ったら少女の匂いを辿ってみよう。
甘い香りは「永遠の愛」の香りに他ならない……そう思えるから。
また、あの時と同じ繰り返しになったとしても……
(……人間に戻りたい……まだ、人の心があるうちに……)
胸の中にある硬く冷えた思いが、甘い香りを受けて芽吹く。
ウンデルの森は、秋の匂いを含んだ静けさに満ちていた。
落ち葉の湿り気にも、樹々を拠り所にする茸にも。
だが、今夜の満月は、残酷なまでに白かった。
ルークが夜空を眺めた視線の先に、星が静かに流れた。




