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第七章 「満月の夜」①

---ヴァレー国 ウンデルの森の中---



森は、様々な音を、その空間に蓄える。

木々の青葉をサラサラと揺らす音、かさこそ土を踏む獣の足音、木の上でホウホウ鳴く(ふくろう)の声。



そのすべての音が、黒狼の耳へ届いていた。

明確な位置だけではなく、匂いとともに。



狼の優れた嗅覚と聴覚。

一キロ先の鹿が草を食む音すら聞き分けられる耳が、今夜、異質な響きを捉えた。



低く押し殺した男たちの卑しい笑い声。

荒い息づかいと熱を帯びた体温。



そして−−−−−助けを求める悲痛な少女の叫び。

「……やめてぇ……だれかぁぁぁ……」



黒狼は立ち止まった。

その声が、森のどこから来ているのか、瞬時に把握した。



あの荒い息遣い(いきづかい)の男たちの会話は聞いていた。



「金のタトゥーを持った女が、ここを通る」


「いい女らしいぜ。聖女にならなかったら、俺たちで頂きだ、へっへっへ」



聖女狩りの男たちだ。

いつもなら、関わらない……はずが……甘い香りを感じ……



鼻の奥まで届く、胸を揺さぶられるほど強烈な甘い香り。

黒狼の全身に雷にも似た衝撃が駆け抜けた。



甘い香りが……心臓にズキッとした痛みを投げ打つ。



黒狼は、思考よりも先に、脚が地を蹴り、森の木立を裂くように駆け抜けていった、甘い香りのする少女の元へ。



草を食んでいた鹿たちが、突進してくる影に驚き、一斉に逃げ散っていく。



甘い香り……そこだッ!!

黒狼は茂みをかき分け、ザザッと飛び出た。



男たちに捕らえられた少女。

今まで嗅いだことのない、強く甘い香りに理性が吹き飛ぶ。



黒狼は、腹の底から、ウワオォォォォーンと吠えた。



黒狼の遠吠えに、荷馬車の馬がヒヒーンと、いななき暴れる。




「うわっ、狼だ、狼が出たぞーー 」


「馬を守れぇ!! あっち行け、このヤロー…… 」



黒狼が牙を剥いて、男に飛び掛かっていく。



「助けてくれっ」



 黒狼に押し倒されて下敷きになった男が、「命だけ、命だけは助けてくれ!! 」と叫ぶが、黒狼はガブリっと男の腕を噛む。

黒狼の牙に男の血が(したた)り落ちる。



「うぎゃぁあああっ」



「殺されるぞぉ、逃げろぉーー」



少女を放り出した男たちは、這う這うの(ほうほうのてい)で荷馬車へ飛び乗り、逃げていった。



黒狼にとっては、一瞬の出来事だった。



少女が、ガクンと膝を折って、へたりこんむ。



甘い香りの少女の側に近寄ってみると、少女の視線。

空色の澄んだ瞳が、黒狼の金色の瞳とぶつかる。



少女は、黒狼の前肢に金の輪を見つけ、ハッとして見せたが、すぐに目を閉じて、震える身体で手を組んだ。



恐怖で喉に声が張りついたように絞り出される声。



「……愛する女性と、出会えますように……愛する女性と、出会え

ますように」



その言葉を聞き、黒狼は悟る。

震えている、この少女が永遠の愛を誓ってはくれないだろう、と。



少女の甘い香りに導かれて来たが、なにも出来やしない。

有るのは狂おしい気持ちと、やるせなさ、歯がゆさ。



黒狼は少女に背を向けると、ウンデルの森の中へ進んでいった。



夕陽()が落ちた……その夜は、月に一度の満月の夜だった。



白く、冷たく、逃げ場のない光が森を照らし始めると、月光の下で、黒狼の身体が軋み、骨が鳴り、筋肉が裂け、剥がれゆく毛皮の下に、人の皮膚が生まれ、一人の若い男となった。

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