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第六章「黒狼の金の瞳」②

---現在 クレイモン伯爵家邸内---



マリーネ・クレイモン伯爵夫人は怒りで歪んだ形相だった。



「……アンジェ、こっちへ来なさい」



夫人の手に握られていたのは、細くしなやかな馬用の鞭だった。アンジェは何も弁明できぬまま鞭で打たれた。ジュリエッテと夫人の怒りを買ってしまった以上、弁解しても始まらない。



「この泥棒猫! 恩を仇で返すなんて。おまえは本当に卑しい血筋だねっ」



鋭い風を切る音と共に、鞭がアンジェの肩をピシャリと打つ。

古く薄くなっているドレス越しでも熱い痛みが走る。アンジェは歯を喰いしばり、床に跪いて耐えた。伯爵夫人の鞭を打つ手が緩んだとき、アンジェの背中には赤い筋が幾幾本も浮き上がっていた。



「しばらく部屋で反省をしなさい。食事は抜きよ……」

夫人は冷たく言い放つ。


アンジェは使用人の下女とともに、自分の部屋へ向かう。

下女は申し訳なさそうに、アンジェの顔を見る。アンジェは養女だが、実の娘であるジュリエッテとは違う。アンジェは自分たちと同等の使用人ではなく、使用人扱いされている養女との位置づけであり、屋敷内では「アンジェ様」と呼ぶのが習わしだった。



アンジェが静かに部屋へ入ると、外からガチャリ、と鍵がかけられた。その非情な音が静かな廊下に響いた。


その夜、アンジェは痛む身体を丸めて、硬いベッドに横たわっていた。 窓から差し込む青白い月光が、狭い室内を微かに照らす。



(……今度は何日、閉じ込められるんだろう……)



幼い頃の記憶が蘇る。

皿を割った、家畜の世話を怠った、口答えをした……。

そんな些細な理由で、彼女は部屋にカギをかけられ食事を抜かれた。

いつもは三日程度。それで済むのは、ダンテス・クレイモン伯爵家では、人件費を削るために使用人の数を極限まで減らしていたからだった。富裕な貴族であるにもかかわらず、ダンテス・クレイモン伯爵自身が浪費嫌いの人物だったからである。


アンジェが「使用人」としての役割を担わないと、屋敷の掃除や雑用が滞り、伯爵一家の生活に不都合が出る、だから三日以上、閉じ込められることはなかった。ただ今回は、夫人が溺愛しているジュリエッテが絡んでいる。もっと長くなるかも知れない、と不安がよぎる。



夜も更けた頃、コン、と扉を小さく叩く音。



(……ガイ兄さま?)



アンジェは痛みを堪え、這うようにしてドアに近寄る。



「アンジェ……本当にごめん、僕のせいでアンジェがこんな目に合わされて……」



ドア越しのガイの声は震えていた。ガイの後悔に包まれた気持ちが伝わってくる。


「……ガイ兄さまのせいじゃない……それに……」

アンジェはクスっと笑った。



「……閉じ込められても平気……だって、何もしなくていいんだよ……身体は痛いけど……それにオルドリア正教の教義書を一日読んでいられるしね……」



強がりではなかった。日々の過酷な労働から解放され、一人きりで読書に没頭できるこの時間は、彼女にとって奇妙な安らぎでもあった。



「ここからすぐに出してもらうよう、明日、伯爵に言ってみるよ」



ガイがドア越しに、小声で、だが決然と言う。 アンジェは首を振った。姿は見えない。けれど彼が苦渋の表情を浮かべているのはわかる。


「ガイ兄さま……私のことはいいから……大丈夫……心配してくれるだけで……それだけで嬉しい」



「……アンジェ……僕が必ず……」

ガイは、それ以上は言葉を続けなかった。



去っていく足音が廊下に消えていく。

アンジェは、最後の方でガイの声がひどく暗くなっているのに気づいた。

だが、カギのかかった部屋ではどうすることもできず、彼女はただ、ドアの前で静かに膝をつき、祈った。



「聖女様のご加護がありますように」



翌日の夕方。

下女がアンジェの部屋のカギをガチャガチャと外し始めた。



「アンジェ様……いますぐに家畜の世話をするようにと旦那様がおっしゃっています」


「えっ? いまから?」



アンジェは窓の外を見る。もう夕暮れ、すぐにでも暗くなる。



「はい」 下女は申し訳なさそうに、目を伏せて答えた。



部屋を出てダイニングを通ると、そこでは一家が夕食を囲んでいた。 ダンテス・クレイモン伯爵、伯爵夫人、そして勝ち誇ったような顔のジュリエッテ。その傍らには、表情を消したガイがいる。 彼らは食事の手を止めてアンジェを見た。



「……何をぼうっと突っ立っているんだ、アンジェ。早く家畜の世話をしてこい……ガイに家畜の匂いはつけられないからな……」

伯爵が冷たく言い放つ。



その横で、ジュリエッテが優雅にフォークを置いた。

「ガイ兄さまに、私の香水以外の匂いがつくのはゴメンだわ……感謝することね、アンジェ」


その言葉の隣りで、ガイがアンジェに向かって素早くウィンクをしてみせた。

アンジェはすべてを理解した。 屋敷の馬や豚、羊たちの世話は、汚物や糞の処理を嫌う使用人たちに代わってアンジェが押し付けられていた仕事だった。ガイは、アンジェを自由にするために、あえて彼女の「労働力としての価値」を伯爵に説いたのだろう。



(……ガイ兄さまが、戻してくれたんだ)



「旦那様……ありがとうございます」



アンジェは深々と頭を下げた。自分を虐げられていても礼儀は尽くす。この家で生き抜くための処世術として。アンジェは 彼女はくるりと身体をひるがえした。家畜小屋へ、と。


(……みんな、お腹空いたよね……って、私も丸一日食べてないから、お腹空いてるけど……)


ふふっと小さな笑いが漏れた。

漂ってくる強い家畜の匂いも、今の彼女にとってはマシに思える。何よりもガイがアンジェの味方でいてくれる、それだけで、胸の中でガイへの想いが高まる。アンジェは人差し指で唇をなぞった。



(……生まれて初めてのキス……ガイ兄さまと……ガイ兄さま……)



夕暮れの空の下、アンジェは小さな背中で感じていた。ガイに対して感謝だけではなく、兄ではない異性としての「好き」という気持ちを持っていることを・・・・・・。

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