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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第1章 観測者の立つ場所

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例外の残響


街は、相変わらず“普通”を装っていた。


昨日と同じ時刻、同じ鐘の音。

人々の足取りも、交わされる挨拶も、過不足なく再生されている。


――再生、か――


恒一は、宿の窓から通りを眺めながら、そんな言葉を頭の中で転がした。

再生という表現が、妙にしっくり来てしまうこと自体が、すでに正常ではない。


「……慣れって、怖いな」


呟きは、部屋の中で消えた。


先日の“境目”を観てしまってから、世界の見え方が少し変わった。

劇的な変化ではない。

むしろ逆だ。


何も変わっていないように見えることが、耐え難くなった。


街の中に潜む、あの“人のいない街”。

重なって存在する、失敗の結果だけが残った層。


あれを一度知ってしまえば、

この街の賑わいは、どこか薄い膜越しに聞こえてくる。


「……観測者は、一人で十分、か」


傭兵風の男の言葉を思い出す。


例外は増えるべきではない。

世界は、そういう設計になっている。


だが――


「増えてるんだろうな」


増え始めている。

だからこそ、管理者は沈黙し、世界は均しを強めている。


恒一は宿を出た。


目的は決めていない。

だが、自然と足は街の端へ向かっていた。



境界に近づくにつれ、音が減る。


人の声が遠のき、風の音だけが残る。

だが完全な静寂にはならない。


ここはまだ、“こちら側”だ。


昨日見た重なりを、もう一度観るつもりはなかった。

意図的に観れば、世界は必ず反応する。


だから今日は、

観ないまま、近づく。


自分がどこまで許されているのか、確かめるために。


住宅が途切れ、半ば放棄された倉庫の並ぶ区画に入る。

人の気配は薄いが、完全に消えてはいない。


そのとき。


違和感があった。


視界の端。

建物の影。


そこだけ、光の反射が異なる。


恒一は、足を止めた。


――見るな。

――だが、無視するな。


その矛盾した選択を、無意識に取っていた。


ゆっくりと、影の方へ近づく。


そこに――


人が、いた。


少女だった。


年は、十代半ばだろうか。

痩せすぎているわけではないが、どこか存在感が薄い。


だが、何より目を引いたのは――


髪。


白かった。


老化のそれではない。

染めた色でもない。


光を受けているのに、

色として、うまく認識されない白。


恒一は、息を詰めた。


――例外。


その言葉が、即座に浮かぶ。


少女は、こちらを見ていなかった。

倉庫の壁に背を預け、空を見上げている。


何かを待っているようにも、

何も期待していないようにも見えた。


恒一は、声をかけるべきか迷った。


観測者としては、最悪の選択肢だ。

関与すれば、世界は必ず揺れる。


だが――


このまま立ち去ることも、できなかった。


理由は分からない。

ただ、直感が告げている。


この存在を見逃せば、取り返しがつかない。


「……君」


声が、出てしまった。


少女が、ゆっくりと視線を下ろす。


視線が、合った。


その瞬間、世界がわずかに軋んだ。


大きな揺らぎではない。

だが、確実な反応。


少女は、少し驚いたように目を見開いた。


「……私、見えてるの?」


その言葉に、恒一は一瞬、言葉を失った。


「見えてるの、って……」


「だって、ここに立ってても、だいたい誰も気づかないから」


少女は、淡々と言った。


声に感情は薄い。

だが、慣れている。


それが、かえって胸に刺さる。


「……気づかない、って?」


少女は、少し考える素振りを見せた。


「避けられる、というより……

最初から、いないみたいに」


恒一の背中に、冷たいものが走る。


――削除対象。


まだ完全ではないが、

均しの対象に入りかけている。


「名前は?」


問いが、口を突いて出た。


聞くべきではない。

名前は、存在を固定する。


だが、止められなかった。


少女は、少しだけ迷ってから答えた。


「……澪」


それだけだった。


姓は、言わなかった。

あるいは、思い出せないのかもしれない。


「澪、か」


口にした瞬間、

世界がまた、微かに鳴った。


少女――澪は、眉をひそめる。


「……やっぱり、良くない?」


「何が?」


「名前、呼ばれるの」


恒一は、はっきり答えられなかった。


良くない。

だが、必要だ。


観測者としてではなく、

人として関わるなら。


「……多分、世界には嫌われる」


正直に言った。


澪は、少しだけ笑った。


「そっか」


その反応は、あまりに穏やかだった。


「でも、呼ばれないまま消えるよりは、その方がまだいいかな」


恒一は、その言葉を否定できなかった。


沈黙が落ちる。


風が吹き、澪の白い髪が揺れる。

色を持たないそれは、背景に溶け込みそうで、必死に輪郭を保っていた。


――このままでは、消える。


確信があった。


観なければ、均しが進む。

観れば、世界が揺れる。


どちらにしても、無傷では済まない。


恒一は、静かに息を吐いた。


「……ここには、あまり長くいない方がいい」


傭兵風の男に聞いた忠告を、そのまま流用する。


澪は、首を傾げた。


「どこなら、いいの?」


その問いは、あまりに無防備だった。

行き先を持たない者の問い。


恒一は、すぐには答えなかった。

一度、街の方へ視線を投げる。


「……少なくとも」


言葉を選ぶように、間を置いてから続ける。


「俺が把握できる範囲にいろ」


澪は、きょとんとした顔でこちらを見る。


「把握?」


「見失うと、面倒になる」


事実だけを並べた言い方だった。


澪は一瞬考えてから、少しだけ笑った。


「守ろうとしてくれるの?」


「違う」


恒一は、即座に否定する。


「消えかけてるものを放置すると、後始末が厄介になるだけだ」



「後始末?」


恒一は、少しだけ口元を歪めた。


「お前が消えると面倒になる」


澪は、はっきり笑った。


「じゃあ、大丈夫だね」


恒一は、その楽観を羨ましいと思った。


同時に、この存在を消してはいけないと感じてしまった自分を、呪った。


――観測者は、守る役じゃない。


だが。


「……今日は、戻ろう」

「ここにいると、本当に消える」


澪は、素直に頷いた。


「うん」


二人は、並んで歩き出す。


街の“普通”の層へ。


背後で、空気がわずかに戻るのを感じながら。


恒一は、理解していた。


この出会いは、

世界にとっての異物であり、

自分にとっての決定事項だ。


守ると決めたわけではない。

だが――


もう、観ないという選択肢は消えた。

ここまでお読み頂きありがとうございます。

よろしければ、率直な感想を頂けますと幸いです

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