例外の残響
街は、相変わらず“普通”を装っていた。
昨日と同じ時刻、同じ鐘の音。
人々の足取りも、交わされる挨拶も、過不足なく再生されている。
――再生、か――
恒一は、宿の窓から通りを眺めながら、そんな言葉を頭の中で転がした。
再生という表現が、妙にしっくり来てしまうこと自体が、すでに正常ではない。
「……慣れって、怖いな」
呟きは、部屋の中で消えた。
先日の“境目”を観てしまってから、世界の見え方が少し変わった。
劇的な変化ではない。
むしろ逆だ。
何も変わっていないように見えることが、耐え難くなった。
街の中に潜む、あの“人のいない街”。
重なって存在する、失敗の結果だけが残った層。
あれを一度知ってしまえば、
この街の賑わいは、どこか薄い膜越しに聞こえてくる。
「……観測者は、一人で十分、か」
傭兵風の男の言葉を思い出す。
例外は増えるべきではない。
世界は、そういう設計になっている。
だが――
「増えてるんだろうな」
増え始めている。
だからこそ、管理者は沈黙し、世界は均しを強めている。
恒一は宿を出た。
目的は決めていない。
だが、自然と足は街の端へ向かっていた。
⸻
境界に近づくにつれ、音が減る。
人の声が遠のき、風の音だけが残る。
だが完全な静寂にはならない。
ここはまだ、“こちら側”だ。
昨日見た重なりを、もう一度観るつもりはなかった。
意図的に観れば、世界は必ず反応する。
だから今日は、
観ないまま、近づく。
自分がどこまで許されているのか、確かめるために。
住宅が途切れ、半ば放棄された倉庫の並ぶ区画に入る。
人の気配は薄いが、完全に消えてはいない。
そのとき。
違和感があった。
視界の端。
建物の影。
そこだけ、光の反射が異なる。
恒一は、足を止めた。
――見るな。
――だが、無視するな。
その矛盾した選択を、無意識に取っていた。
ゆっくりと、影の方へ近づく。
そこに――
人が、いた。
少女だった。
年は、十代半ばだろうか。
痩せすぎているわけではないが、どこか存在感が薄い。
だが、何より目を引いたのは――
髪。
白かった。
老化のそれではない。
染めた色でもない。
光を受けているのに、
色として、うまく認識されない白。
恒一は、息を詰めた。
――例外。
その言葉が、即座に浮かぶ。
少女は、こちらを見ていなかった。
倉庫の壁に背を預け、空を見上げている。
何かを待っているようにも、
何も期待していないようにも見えた。
恒一は、声をかけるべきか迷った。
観測者としては、最悪の選択肢だ。
関与すれば、世界は必ず揺れる。
だが――
このまま立ち去ることも、できなかった。
理由は分からない。
ただ、直感が告げている。
この存在を見逃せば、取り返しがつかない。
「……君」
声が、出てしまった。
少女が、ゆっくりと視線を下ろす。
視線が、合った。
その瞬間、世界がわずかに軋んだ。
大きな揺らぎではない。
だが、確実な反応。
少女は、少し驚いたように目を見開いた。
「……私、見えてるの?」
その言葉に、恒一は一瞬、言葉を失った。
「見えてるの、って……」
「だって、ここに立ってても、だいたい誰も気づかないから」
少女は、淡々と言った。
声に感情は薄い。
だが、慣れている。
それが、かえって胸に刺さる。
「……気づかない、って?」
少女は、少し考える素振りを見せた。
「避けられる、というより……
最初から、いないみたいに」
恒一の背中に、冷たいものが走る。
――削除対象。
まだ完全ではないが、
均しの対象に入りかけている。
「名前は?」
問いが、口を突いて出た。
聞くべきではない。
名前は、存在を固定する。
だが、止められなかった。
少女は、少しだけ迷ってから答えた。
「……澪」
それだけだった。
姓は、言わなかった。
あるいは、思い出せないのかもしれない。
「澪、か」
口にした瞬間、
世界がまた、微かに鳴った。
少女――澪は、眉をひそめる。
「……やっぱり、良くない?」
「何が?」
「名前、呼ばれるの」
恒一は、はっきり答えられなかった。
良くない。
だが、必要だ。
観測者としてではなく、
人として関わるなら。
「……多分、世界には嫌われる」
正直に言った。
澪は、少しだけ笑った。
「そっか」
その反応は、あまりに穏やかだった。
「でも、呼ばれないまま消えるよりは、その方がまだいいかな」
恒一は、その言葉を否定できなかった。
沈黙が落ちる。
風が吹き、澪の白い髪が揺れる。
色を持たないそれは、背景に溶け込みそうで、必死に輪郭を保っていた。
――このままでは、消える。
確信があった。
観なければ、均しが進む。
観れば、世界が揺れる。
どちらにしても、無傷では済まない。
恒一は、静かに息を吐いた。
「……ここには、あまり長くいない方がいい」
傭兵風の男に聞いた忠告を、そのまま流用する。
澪は、首を傾げた。
「どこなら、いいの?」
その問いは、あまりに無防備だった。
行き先を持たない者の問い。
恒一は、すぐには答えなかった。
一度、街の方へ視線を投げる。
「……少なくとも」
言葉を選ぶように、間を置いてから続ける。
「俺が把握できる範囲にいろ」
澪は、きょとんとした顔でこちらを見る。
「把握?」
「見失うと、面倒になる」
事実だけを並べた言い方だった。
澪は一瞬考えてから、少しだけ笑った。
「守ろうとしてくれるの?」
「違う」
恒一は、即座に否定する。
「消えかけてるものを放置すると、後始末が厄介になるだけだ」
「後始末?」
恒一は、少しだけ口元を歪めた。
「お前が消えると面倒になる」
澪は、はっきり笑った。
「じゃあ、大丈夫だね」
恒一は、その楽観を羨ましいと思った。
同時に、この存在を消してはいけないと感じてしまった自分を、呪った。
――観測者は、守る役じゃない。
だが。
「……今日は、戻ろう」
「ここにいると、本当に消える」
澪は、素直に頷いた。
「うん」
二人は、並んで歩き出す。
街の“普通”の層へ。
背後で、空気がわずかに戻るのを感じながら。
恒一は、理解していた。
この出会いは、
世界にとっての異物であり、
自分にとっての決定事項だ。
守ると決めたわけではない。
だが――
もう、観ないという選択肢は消えた。
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