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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第1章 観測者の立つ場所

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観測者の影


街は、昨日までと同じ顔をしていた。


朝の光は変わらず通りを照らし、露店はいつもの場所に並び、行商人の声が空気を揺らす。人々はそれぞれの目的地へ向かい、迷いなく歩いている。


――同じだ――


少なくとも、見た目は。


恒一は宿の入口に立ったまま、しばらく街を眺めていた。

昨夜――いや、正確には今朝方まで、頭の奥に残っていた違和感は、目を覚ますと同時に一度薄れていた。


だが、消えたわけではない。


それは、見えないところに移動しただけだ。


「……大丈夫だと断ずる理由が、何一つないな」


独り言は、相変わらず誰にも拾われない。


街へ踏み出すと、昨日と同じように、人の流れが恒一を避けるでもなく、押し戻すでもなく、自然に受け入れた。

そのことが、かえって不安を強める。


――“受け入れられている”というより、“組み込まれている”――


そんな感覚。


恒一は、昨夜の傭兵風の男のことを思い返していた。

「見たな」と言い切った、あの言葉。


あの男は、何を知っているのか。

あるいは、どこまで「観えている」のか。


昨日までなら、そこまで考えなかった。

だが今は違う。


観測すれば、揺らぐ。

揺らげば、何かが反応する。


ならば。


「……もう一回、確かめるか」


恒一は、街の中心から少し離れた方角へ向かった。

人通りはあるが、昨日ほど密ではない。露店も少なく、住宅が増えていく区域。


子どもが一人、路地で石ころを転がして遊んでいる。

母親らしき女性が、家の前で洗濯物を干している。


どこにでもある、穏やかな光景。


恒一は、足を止めた。


意識を、ほんの少しだけ尖らせる。


――見るな――

――だが、感じろ――


昨夜の声を思い出しながら、完全に“観る”一歩手前で止める。


すると。


世界は、揺れなかった。


代わりに、空気が“重く”なる。


視界が歪むことも、音が遅れることもない。

だが、空間そのものが、わずかに張り詰める。


「……反応、している」


自分が踏み込まないことで、世界が身構えている。


そんな印象だった。


そのとき。


「ねえ」


背後から、声がかかった。


振り返ると、洗濯物を干していた女性が、こちらを見ていた。

年は三十前後。派手さはないが、よく日に焼けた、生活の匂いがする顔。


「旅の人?」


「……ああ」


頷くと、彼女は少し困ったように眉を寄せる。


「ここ、あまり長く立たない方がいいわよ」


「どうして?」


問い返すと、彼女は一瞬、言葉に詰まった。


昨日の傭兵と、同じだ。


「……理由は、上手く説明できないの」


彼女はそう言って、小さく首を振る。


「でもね、たまにいるの。あなたみたいに、立ち止まって、何か考えてる人」


「そうか、その人達は?」


女性は、洗濯物から視線を外し、空を見上げた。


「……気づいたら、いなくなってる」


風が、通り抜けた。


冷たくも、暖かくもない風。


「街を出た、ってことか?」


「そうだったらいいんだけど」


彼女は、そう言って微笑んだ。


だが、その笑みは、どこか引き攣っていた。


恒一は、それ以上踏み込めなかった。

女性も、それ以上話そうとしなかった。


会話は、そこで自然に終わる。


――説明できないことは、語られない。


それが、この街の不文律なのかもしれない。


恒一は歩き出しながら、胸の奥が静かに底冷えしていくのを感じていた。


「いなくなる、か……」


削除されるのか。

それとも、別の“層”へ落ちるのか。


昨夜、垣間見た空白が、脳裏をよぎる。


街の端に近づくと、空気が変わった。

人の流れが薄くなり、音も減る。


ここから先は、意識して歩かなければ辿り着けない場所だ。


――境目。


恒一は、足を止めた。


そして、今度ははっきりと、観ることを選んだ。


世界が、鳴った。


キィン、という高音。

視界が歪み、色が脱落していく。


建物の輪郭が、歪んでいく。

影が、影であることをやめる。


その向こうに。


“もう一つの街”が、重なって見えた。


同じ構造。

同じ道。

だが、人がいない。


音もない。


均された無機物の結果だけが、残っている。

人の痕跡だけが、意図的に削ぎ落とされた街。


「……これが、失敗した側か」


呟いた瞬間。


背後で、足音がした。


振り返る。


そこにいたのは、昨日の傭兵風の男だった。


昼間の光の中でも、彼の影は濃い。


「やはり来たか…」


低い声。


「……あんた、やはり何か知ってるな」


男は、小さく笑った。


「知ってる、というより……観えている、と言った方が近い」


恒一は、世界の揺らぎを保ったまま、男を見る。


「じゃあ聞く。あんたは、何者だ」


男は、一瞬だけ視線を伏せた。


「俺は、失敗作だ」


その言葉は、重かった。


「昔、あんたみたいに“観えちまった”。だが、完全に観る勇気も、完全に目を逸らす覚悟もなかった」


男は、街の方を見た。


「結果、こうして“残った”」


「残った?」


「ああ。削除されなかった代わりに、修正もされなかった」


だから、と男は続ける。


「俺は、普通の人間じゃない」


恒一は、黙って聞いていた。


「観測者はな、基本的に一人で十分なんだ」


男の視線が、恒一に戻る。


「だが、世界が不安定になると、例外が出る」


「俺みたいな?」


「そうだ」


男は、静かに言った。


「そして、例外が増え始めると――」


言葉が、途切れる。


その続きを、恒一は聞かなかった。


聞かなくても、分かる。


「世界が、保てなくなる」


男は、ゆっくり頷いた。


「だから忠告した。深入りするな、と」


「無理な相談だ」


恒一は、はっきり言った。


「もう、観えちまってる」


男は、苦笑した。


「……そうだろうな」


世界が、軋む。


揺らぎが、強まる。


重なっていた“もう一つの街”が、少しだけ前に出てくる。


男は、一歩下がった。


「ここまでだ」


「何が?」


「これ以上は、あんたの領域だ」


男は背を向ける。


「選べ。観測者として進むか、俺みたいに境界に留まるか」


「留まったら?」


男は、振り返らなかった。


「世界が壊れる音を、特等席で最後まで聞ける」


それだけ言って、男は街の中へ消えていった。


揺らぎが、静まる。


世界は、また“普通”に戻る。


恒一は、その場に立ち尽くした。


観測者。

例外。

失敗作。


管理者の声が、頭の奥で反響する。


《“観る”

それだけで、十分なのだ》


本当に、そうか。


恒一は、空を見上げた。


昼の空は、相変わらず綺麗だ。


だが今は、その綺麗さの裏側を、想像できてしまう。


世界は、壊れかけている。

そして、自分は、その“兆候”を広げている。


それでも。


「……観ない、って選択肢はないな」


呟く。


観測者は、立つ場所を選べない。

ただ、立ってしまった場所から、目を逸らせないだけだ。


恒一は、ゆっくりと街へ戻り始めた。


均された世界の中へ。

次の“影”が、現れる場所へ。


静かに、確実に、何かが増えている。


それを、恒一は、もう見逃せない。

ここまでお読み頂きありがとうございます。

よろしければ、率直な感想を頂けますと幸いです。


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