観測者の影
街は、昨日までと同じ顔をしていた。
朝の光は変わらず通りを照らし、露店はいつもの場所に並び、行商人の声が空気を揺らす。人々はそれぞれの目的地へ向かい、迷いなく歩いている。
――同じだ――
少なくとも、見た目は。
恒一は宿の入口に立ったまま、しばらく街を眺めていた。
昨夜――いや、正確には今朝方まで、頭の奥に残っていた違和感は、目を覚ますと同時に一度薄れていた。
だが、消えたわけではない。
それは、見えないところに移動しただけだ。
「……大丈夫だと断ずる理由が、何一つないな」
独り言は、相変わらず誰にも拾われない。
街へ踏み出すと、昨日と同じように、人の流れが恒一を避けるでもなく、押し戻すでもなく、自然に受け入れた。
そのことが、かえって不安を強める。
――“受け入れられている”というより、“組み込まれている”――
そんな感覚。
恒一は、昨夜の傭兵風の男のことを思い返していた。
「見たな」と言い切った、あの言葉。
あの男は、何を知っているのか。
あるいは、どこまで「観えている」のか。
昨日までなら、そこまで考えなかった。
だが今は違う。
観測すれば、揺らぐ。
揺らげば、何かが反応する。
ならば。
「……もう一回、確かめるか」
恒一は、街の中心から少し離れた方角へ向かった。
人通りはあるが、昨日ほど密ではない。露店も少なく、住宅が増えていく区域。
子どもが一人、路地で石ころを転がして遊んでいる。
母親らしき女性が、家の前で洗濯物を干している。
どこにでもある、穏やかな光景。
恒一は、足を止めた。
意識を、ほんの少しだけ尖らせる。
――見るな――
――だが、感じろ――
昨夜の声を思い出しながら、完全に“観る”一歩手前で止める。
すると。
世界は、揺れなかった。
代わりに、空気が“重く”なる。
視界が歪むことも、音が遅れることもない。
だが、空間そのものが、わずかに張り詰める。
「……反応、している」
自分が踏み込まないことで、世界が身構えている。
そんな印象だった。
そのとき。
「ねえ」
背後から、声がかかった。
振り返ると、洗濯物を干していた女性が、こちらを見ていた。
年は三十前後。派手さはないが、よく日に焼けた、生活の匂いがする顔。
「旅の人?」
「……ああ」
頷くと、彼女は少し困ったように眉を寄せる。
「ここ、あまり長く立たない方がいいわよ」
「どうして?」
問い返すと、彼女は一瞬、言葉に詰まった。
昨日の傭兵と、同じだ。
「……理由は、上手く説明できないの」
彼女はそう言って、小さく首を振る。
「でもね、たまにいるの。あなたみたいに、立ち止まって、何か考えてる人」
「そうか、その人達は?」
女性は、洗濯物から視線を外し、空を見上げた。
「……気づいたら、いなくなってる」
風が、通り抜けた。
冷たくも、暖かくもない風。
「街を出た、ってことか?」
「そうだったらいいんだけど」
彼女は、そう言って微笑んだ。
だが、その笑みは、どこか引き攣っていた。
恒一は、それ以上踏み込めなかった。
女性も、それ以上話そうとしなかった。
会話は、そこで自然に終わる。
――説明できないことは、語られない。
それが、この街の不文律なのかもしれない。
恒一は歩き出しながら、胸の奥が静かに底冷えしていくのを感じていた。
「いなくなる、か……」
削除されるのか。
それとも、別の“層”へ落ちるのか。
昨夜、垣間見た空白が、脳裏をよぎる。
街の端に近づくと、空気が変わった。
人の流れが薄くなり、音も減る。
ここから先は、意識して歩かなければ辿り着けない場所だ。
――境目。
恒一は、足を止めた。
そして、今度ははっきりと、観ることを選んだ。
世界が、鳴った。
キィン、という高音。
視界が歪み、色が脱落していく。
建物の輪郭が、歪んでいく。
影が、影であることをやめる。
その向こうに。
“もう一つの街”が、重なって見えた。
同じ構造。
同じ道。
だが、人がいない。
音もない。
均された無機物の結果だけが、残っている。
人の痕跡だけが、意図的に削ぎ落とされた街。
「……これが、失敗した側か」
呟いた瞬間。
背後で、足音がした。
振り返る。
そこにいたのは、昨日の傭兵風の男だった。
昼間の光の中でも、彼の影は濃い。
「やはり来たか…」
低い声。
「……あんた、やはり何か知ってるな」
男は、小さく笑った。
「知ってる、というより……観えている、と言った方が近い」
恒一は、世界の揺らぎを保ったまま、男を見る。
「じゃあ聞く。あんたは、何者だ」
男は、一瞬だけ視線を伏せた。
「俺は、失敗作だ」
その言葉は、重かった。
「昔、あんたみたいに“観えちまった”。だが、完全に観る勇気も、完全に目を逸らす覚悟もなかった」
男は、街の方を見た。
「結果、こうして“残った”」
「残った?」
「ああ。削除されなかった代わりに、修正もされなかった」
だから、と男は続ける。
「俺は、普通の人間じゃない」
恒一は、黙って聞いていた。
「観測者はな、基本的に一人で十分なんだ」
男の視線が、恒一に戻る。
「だが、世界が不安定になると、例外が出る」
「俺みたいな?」
「そうだ」
男は、静かに言った。
「そして、例外が増え始めると――」
言葉が、途切れる。
その続きを、恒一は聞かなかった。
聞かなくても、分かる。
「世界が、保てなくなる」
男は、ゆっくり頷いた。
「だから忠告した。深入りするな、と」
「無理な相談だ」
恒一は、はっきり言った。
「もう、観えちまってる」
男は、苦笑した。
「……そうだろうな」
世界が、軋む。
揺らぎが、強まる。
重なっていた“もう一つの街”が、少しだけ前に出てくる。
男は、一歩下がった。
「ここまでだ」
「何が?」
「これ以上は、あんたの領域だ」
男は背を向ける。
「選べ。観測者として進むか、俺みたいに境界に留まるか」
「留まったら?」
男は、振り返らなかった。
「世界が壊れる音を、特等席で最後まで聞ける」
それだけ言って、男は街の中へ消えていった。
揺らぎが、静まる。
世界は、また“普通”に戻る。
恒一は、その場に立ち尽くした。
観測者。
例外。
失敗作。
管理者の声が、頭の奥で反響する。
《“観る”
それだけで、十分なのだ》
本当に、そうか。
恒一は、空を見上げた。
昼の空は、相変わらず綺麗だ。
だが今は、その綺麗さの裏側を、想像できてしまう。
世界は、壊れかけている。
そして、自分は、その“兆候”を広げている。
それでも。
「……観ない、って選択肢はないな」
呟く。
観測者は、立つ場所を選べない。
ただ、立ってしまった場所から、目を逸らせないだけだ。
恒一は、ゆっくりと街へ戻り始めた。
均された世界の中へ。
次の“影”が、現れる場所へ。
静かに、確実に、何かが増えている。
それを、恒一は、もう見逃せない。
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