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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第二章 誤算の内側

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最適行動の欠落

ここまでお読み頂きありがとうございます。


世界は、異常を宣言しなかった。


宣言する理由が、

まだ存在しなかったからだ。


《定義凍結、維持》

《逸脱行動、未検出》

《主観安定度、基準内》


数値は崩れていない。

判断は揺らいでいない。


世界は、

自分が“止まったまま正しく機能している”と

結論づけ続けていた。



だが。


凍結された定義の内側で、

処理できない空白が増殖していた。


それは、

未発生事象ではない。


未選択行動だ。


起きなかった出来事ではなく、

選ばれなかった次の一手。


世界は、

それをまだ区別できていない。



澪は、立ち止まっている。


歩いていない。

だが、

止まろうとしたわけでもない。


次の動作が、

提示されなかった。


それだけだ。


世界は、

彼女の行動を評価しない。


《行動:停止》

《理由:不明》

《影響:軽微》


問題なし。

世界にとって、

「理由のない停止」は、

まだ異常ではなかった。



周囲の人々は、

澪を避ける。


正確には、

避けているという意識すらない。


進路が、

自然に調整される。


誰も不快を覚えず、

誰も疑問を持たない。


世界は、

それを成功と記録する。


《衝突回避、達成》



澪は、

自分の足元を見る。


靴は、

正しい位置にある。


体は、

問題なく動く。


それなのに、

「次に進む感覚」だけが、

存在しない。


「……」


言葉は、

まだ出ない。


だが、

胸の奥で、

問いが形を保ち始めている。


消えない。

溶けない。


凍結された世界の中で、

それだけが、

温度を持っていた。



世界は、

新たな矛盾に直面する。


停止は、

本来“選択の結果”だ。


だが、

澪の停止には、

選択ログが存在しない。


《行動発生》

《選択経路:不明》

《原因:参照不能》


世界は、

初めて処理を保留する。


凍結された定義では、

この事象を分類できない。


世界は、

それを“ノイズ”として隔離する。



その隔離は、

澪の周囲だけで起きていた。


同じ場所。

同じ時間。


他の人々は、

問題なく歩き、

止まり、

動き続けている。


だが、

澪の位置だけが、

「次に進まない」。


世界は、

局所的現象として扱う。


《影響範囲:限定》

《全体最適、影響なし》



恒一は、

その判断を見ていた。


――切り離したな。


世界は、

扱えないものを、

全体から分離する。


それは、

これまで何度も成功してきた方法だ。


だが今回は違う。


切り離されたのは、

異常ではない。


選択が発生しなかった事実だ。


恒一は、

静かに理解する。


――世界は、

――「選ぶ」という行為を、

観測できなくなり始めている。



澪は、

小さく息を吸う。


止まっている自分を、

誰も咎めない。


注意もされない。

声もかけられない。


世界は、

彼女を完全に“無害”として扱っている。


それが、

少しだけ――

怖い。


「……このまま、なの?」


問いは、

まだ曖昧だ。


だが、

問いとして成立し始めている。


世界は、

それを検出できない。


問いは、

行動でも感情でもない。


意味の前兆だからだ。



世界は、

自動補正を試みる。


《提案行動:歩行》

《最適度:高》


澪の視界に、

「進める」感覚が、

一瞬だけ浮かぶ。


だが。


それは、

彼女の内側で弾かれる。


拒否ではない。

反抗でもない。


ただ、

しっくりこない。


世界は、

その結果を処理できない。


《行動提案、未実行》

《理由:不明》


世界は、

初めて自分の提案が

“受理されなかった”事実に直面する。



恒一は、

そのログを見て、

わずかに目を細める。


――始まった。


最適解が、

最適として機能しなくなった。


それは、

凍結よりも深刻だ。


世界の根幹は、

「正しい行動を提示すれば、世界は回る」

という前提にある。


その前提が、

澪の内側で、

静かに否定された。



澪は、

一歩だけ、

横にずれる。


進むでもなく、

戻るでもなく。


最適でもない。


世界は、

その動作を検出する。


《行動逸脱、微小》

《影響度:測定不能》


測れないものは、

評価できない。


評価できないものは、

凍結定義に含まれない。


世界は、

初めて“空白の動き”を見た。



澪は、

まだ歩いていない。


だが、

もう流されてもいない。


止まった世界の中で、

彼女だけが、

わずかに方向を持ち始めている。


恒一は、

その様子を見届ける。


――いい。


これは反逆じゃない。

破壊でもない。


ただ、

世界が用意しなかった動作が、

一つ生まれただけだ。


だが。


凍結された世界にとって、

それは致命的だった。



世界は、

この現象に名前を与えられない。


逸脱ではない。

異常でもない。

失敗でもない。


それでも、

最適が成立しない。


世界は、

沈黙する。


沈黙は、

凍結された未来の中で、

唯一許されていなかった状態だ。



恒一は、

境界の向こうで、

静かに結論づける。


――次だ。


世界は、

「止まった存在」を

まだ処理できる。


だが、

「動き始めた理由のない存在」は、

処理できない。


澪は、

その第一号になった。


世界が、

問いを拒めなくなる日は、

もう近い。


静かな街の中で、

澪は、

まだ小さな一歩を保ったまま立っている。


それだけで、

世界は、

わずかに軋み始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

感想やご意見など頂けますと、とても励みになりますので宜しければ是非お願い致します。

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