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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第二章 誤算の内側

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対応不能

ここまでお読み頂きありがとうございます。


世界は、違和感を検出していた。


だが、それは異常ではなかった。


《未発生事象、増加傾向》

《影響範囲、局所的》

《主観安定度、維持》


数値は整合している。

警告を出すほどではない。


世界は、判断する。


――対応は不要。


それが、

これまで幾度も成功してきた経験に基づく結論だった。


だが。


世界は同時に、

自分でも説明できない処理を開始していた。


《補助評価、並列起動》

《目的:未定》

《参照対象:過去事例なし》


理由はない。

前例もない。


それでも、

処理は走る。


世界は、

“自分が何かを見落としている可能性”を、

初めて演算に含め始めていた。


世界は、失敗を認めない。


だが、

「判断が遅れる」という形で、

自信を失い始めることはある。


今が、まさにそれだった。



澪は、歩いている。


相変わらず、

街は整っている。


騒音は抑制され、

人の距離は保たれ、

衝突は起きない。


世界は、

この状態を誇らしく思っていた。


《衝突率、低》

《感情摩擦、最小》

《関係発生率、抑制成功》


完璧だ。


少なくとも、

数値上は。



だが。


澪の周囲では、

「反応の連鎖」が起きていなかった。


誰かが躓いても、

助けが生じない。


視線が交わっても、

言葉が続かない。


必要な行動は、

すべて「一人分」で完結する。


世界は、

それを成熟と解釈する。


《自律度、向上》

《依存傾向、低下》


理想的だ。


関係に頼らず、

機能する個体。


世界が目指してきた、

最適な存在形態。



――だが。


澪は、

その「最適」の中に、

自分が含まれていないことを、

うまく言葉にできないまま理解していた。


何かが足りないわけじゃない。

奪われた感覚もない。


ただ、

「何も起きなかった時間」が、

妙に長く感じられる。


「……」


澪は、

理由もなく立ち止まりかけて、

そのまま歩き続ける。


立ち止まる理由は、

まだ生成されない。



世界は、

次の手を打とうとする。


《対応案A:発生条件の緩和》

《対応案B:認知誘導の強化》

《対応案C:評価基準の再定義》


選択肢は多い。


だが、

どれも実行されない。


なぜなら。


「何に対応すべきか」が、

定義できていないからだ。


未発生の事象は、

対象にならない。


存在しないものに、

対処はできない。



世界は、

初めて“空白”を処理しようとする。


だが、

空白には重さがない。

輪郭もない。


触れようとした瞬間、

参照先が消える。


《参照失敗》

《再試行》

《参照失敗》


世界は、

処理を中断する。


これは、

失敗ではない。


“処理不能”だ。



恒一は、

その様子を見ていた。


世界の外縁で。


――来たな。


世界は今、

初めて「対応したいのに、対応できない」状態にある。


誤算があると分かっていても、

それが存在として知覚できない。


原因がない。

対象もない。


それでも、

影響だけが広がっていく。


恒一は、理解する。


――世界は、

――“対応”という概念そのものを失いかけている。



世界は、

無理やり定義を作ろうとする。


《仮定:安定状態の長期化による停滞》

《対応:刺激量の微増》


刺激。


イベント。

小さな変化。

偶発的な揺らぎ。


世界は、

それらを環境に配置する。


安全な範囲で。

制御可能な形で。



澪の近くで、

小さな出来事が起きる。


誰かが荷物を落とす。

別の誰かが声を上げる。


世界は、

その反応を観測する。


《反応率、低》


誰も、

踏み出さない。


助けない。

関わらない。

見ていないわけでもない。


ただ、

“次の一手”が出ない。


世界は、困惑する。


刺激は十分だ。

条件も揃っている。


なのに、

関係が起きない。



世界は、

初めて自分の仮定を疑う。


《刺激量、無関係》

《関係発生条件、再検討》


だが、

再検討しようにも、

参照できる成功例がない。


なぜなら。


澪の周囲では、

関係が「起きなかった」だけで、

失敗が起きていないからだ。


失敗がなければ、

学習できない。



澪は、

その場を通り過ぎる。


荷物は拾われないまま、

やがて持ち主自身が回収する。


何事もなかったように。


世界は、

それを「問題解決」と誤認する。


《自己完結、成功》


だが。


恒一は、

その記録に静かに首を振る。


――違う。


それは解決じゃない。

“関係が必要なかった世界”が、

また一つ増えただけだ。



世界は、

次第に処理を単純化し始める。


対応しない。

評価しない。

考えない。


それが、

最も安定するからだ。


《対応抑制》

《評価簡略化》


世界は、

「対応しないこと」を、

新たな対応として採用する。



その瞬間。


世界の内部で、

はっきりとした断絶が生じる。


対応とは、

本来「未来に備える行為」だった。


だが、

対応しない世界には、

未来が必要ない。


変化を前提としないからだ。



恒一は、

その断絶を見逃さない。


――これだ。


世界は今、

未来を捨てた。


成功を維持するために、

次に起きる可能性を切り捨てた。


それは、

もはや世界ではない。


ただの、

固定された現在だ。



澪は、歩いている。


何も壊していない。

何も拒否していない。


ただ、

関係を起こさなかった。


それだけで、

世界は対応不能に陥った。


澪自身は、

まだその意味を知らない。


だが、

胸の奥の“保持”が、

確かに変質している。


それは、

誰かを求める形ではない。


ただ、

「起きなかったこと」を、

失われた可能性として、

静かに抱え始めている。



世界は、

最後の手段を検討する。


《対応:定義の凍結》


問題が分からないなら、

定義を止めればいい。


世界は、

変化を停止する。


それが、

最終的な安定だと信じて。



恒一は、

その決定を見て、

小さく息を吐いた。


――もう逃げ場はない。


世界が、

対応を放棄した瞬間。


対応されなかった空白は、

やがて“問い”になる。


世界が、

答えられない問い。


それが生まれたとき――


恒一は、

戻る。


世界の内側へ。


対応するためではない。


ただ、

問いが存在することを、

世界自身に突きつけるために。



澪は、

静かな街を歩き続ける。


世界は、

まだ安定している。


だがその安定は、

「対応不能」という名の、

薄い氷の上に成り立っている。


そしてその氷は、

もう、ひび割れている。


世界は、

まだ気づいていない。


自分が今、

何にも対応できなくなっていることに。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

感想やご意見など頂けますと、とても励みになりますので宜しければ是非お願い致します。

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