空白の伝播
ここまでお読み頂きありがとうございます。
世界は、順調だった。
少なくとも、
そう記録されている。
《長期安定化、進行中》
《逸脱率、低水準維持》
《再計測不要》
処理は軽く、
負荷も少ない。
世界は、
自分が「完成に近づいている」と判断していた。
⸻
澪は、歩いている。
街は整いすぎているほど整っていた。
信号は滞らず、
人は流れ、
誰も立ち止まらない。
立ち止まらない理由が、
必要とされない世界。
澪は、その中にいる。
排除されず、
注目もされず、
ただ、通過点として扱われている。
「……」
澪は、何も言わない。
言葉は、
必要なときに自然と出るものだ。
今は、
その必要がない。
⸻
最初の異変は、
澪の少し後ろで起きた。
人の流れが、
ほんの一瞬、詰まる。
誰かが転んだわけでも、
衝突があったわけでもない。
ただ、
進むはずの足が、
同時に一拍遅れた。
理由はない。
世界は、
その遅延を「揺らぎ」として記録しない。
閾値以下だったからだ。
⸻
次の異変は、
少し離れた場所。
カフェのレジで、
店員が一瞬、手を止める。
注文は聞き取れている。
操作も覚えている。
だが、
「次の動作」が、
ごく短く、空白になる。
「……あ、すみません」
そう言って、
何事もなかったように再開する。
世界は、
それを疲労と判断する。
正常範囲。
⸻
澪は、歩き続ける。
何かを起こそうとしているわけじゃない。
意識を向けてもいない。
ただ、
胸の奥にある“保持”が、
変わらず、そこにある。
強くもならず、
薄れもしない。
一定のまま。
⸻
世界は、気づかない。
なぜなら、
異変はすべて「意味を持たない形」で起きている。
事故ではない。
拒否でもない。
選択ですらない。
ただ、
「次に進むはずだったもの」が、
一瞬だけ進まない。
それだけだ。
⸻
世界は、評価を更新する。
《全体安定度、微増》
《摩擦低下》
流れが、
より滑らかになっていると判断する。
実際、
大きな混乱は起きていない。
誰も困らない。
誰も抗議しない。
⸻
だが。
澪の周囲では、
「関係が発生する直前」が、
連続して失敗していた。
視線が合いかけて逸れる。
声が出かけて止まる。
会話が始まる前に終わる。
世界は、
それを成功と呼ぶ。
衝突回避。
不要な接続の削減。
効率的だ。
⸻
澪は、
ふと立ち止まる。
理由はない。
理由が、
生成されなかった。
人の流れは、
自然に澪を避ける。
完璧な距離。
誰にも触れず、
誰も触れない。
「……」
澪は、
胸に手を当てる。
そこにあるのは、
感情ではない。
ただ、
「起きなかった」という事実の集積。
関係が、
始まらなかった痕跡。
⸻
その瞬間。
少し離れた場所で、
子どもが名前を呼ぶ。
「――」
だが、
名前が出てこない。
呼ぶべき相手は分かっている。
顔も、声も、関係も。
それでも、
名前だけが欠ける。
「……あれ?」
母親は笑って、
「どうしたの?」と聞く。
何事もなく、
会話は続く。
世界は、
言語処理の遅延として処理する。
異常なし。
⸻
だが。
恒一は、
それを見ていた。
世界の外縁で。
――始まったな。
澪は、
何もしていない。
拒否も、
選択も、
意思表示もない。
それなのに。
関係が生まれる“直前”だけが、
次々と空白になる。
恒一は、理解する。
――これは破壊じゃない。
――空白の伝播だ。
関係を持たなかった存在が、
関係の発生条件そのものを、
薄く汚染している。
⸻
世界は、
まだ気づかない。
なぜなら、
この歪みは「悪化」しない。
蓄積するだけだ。
小さく。
静かに。
成功の内部に。
⸻
澪は、また歩き出す。
何も変わっていないように見える。
街は動く。
人は流れる。
世界は安定している。
だが、
「次に起きるはずだった関係」だけが、
次々と欠け落ちていく。
世界は、
それを管理できない。
未発生のものは、
観測対象にならないからだ。
⸻
恒一は、
静かに息を吐く。
――世界は、もう戻れない。
成功を定義した世界は、
この空白を異常として扱えない。
そして、
この空白は、
確実に広がっていく。
澪の周囲から。
世界の内側へ。
関係が、
起きなかった世界が、
自分自身を侵食し始めている。
それが、
次に壊れる理由になる。
恒一は、まだ戻らない。
戻るのは――
世界が、
「成功とは何だったのか」
分からなくなった、その先だ。
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