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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第二章 誤算の内側

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空白の伝播

ここまでお読み頂きありがとうございます。


世界は、順調だった。


少なくとも、

そう記録されている。


《長期安定化、進行中》

《逸脱率、低水準維持》

《再計測不要》


処理は軽く、

負荷も少ない。


世界は、

自分が「完成に近づいている」と判断していた。



澪は、歩いている。


街は整いすぎているほど整っていた。

信号は滞らず、

人は流れ、

誰も立ち止まらない。


立ち止まらない理由が、

必要とされない世界。


澪は、その中にいる。


排除されず、

注目もされず、

ただ、通過点として扱われている。


「……」


澪は、何も言わない。


言葉は、

必要なときに自然と出るものだ。


今は、

その必要がない。



最初の異変は、

澪の少し後ろで起きた。


人の流れが、

ほんの一瞬、詰まる。


誰かが転んだわけでも、

衝突があったわけでもない。


ただ、

進むはずの足が、

同時に一拍遅れた。


理由はない。


世界は、

その遅延を「揺らぎ」として記録しない。


閾値以下だったからだ。



次の異変は、

少し離れた場所。


カフェのレジで、

店員が一瞬、手を止める。


注文は聞き取れている。

操作も覚えている。


だが、

「次の動作」が、

ごく短く、空白になる。


「……あ、すみません」


そう言って、

何事もなかったように再開する。


世界は、

それを疲労と判断する。


正常範囲。



澪は、歩き続ける。


何かを起こそうとしているわけじゃない。

意識を向けてもいない。


ただ、

胸の奥にある“保持”が、

変わらず、そこにある。


強くもならず、

薄れもしない。


一定のまま。



世界は、気づかない。


なぜなら、

異変はすべて「意味を持たない形」で起きている。


事故ではない。

拒否でもない。

選択ですらない。


ただ、

「次に進むはずだったもの」が、

一瞬だけ進まない。


それだけだ。



世界は、評価を更新する。


《全体安定度、微増》

《摩擦低下》


流れが、

より滑らかになっていると判断する。


実際、

大きな混乱は起きていない。


誰も困らない。

誰も抗議しない。



だが。


澪の周囲では、

「関係が発生する直前」が、

連続して失敗していた。


視線が合いかけて逸れる。

声が出かけて止まる。

会話が始まる前に終わる。


世界は、

それを成功と呼ぶ。


衝突回避。

不要な接続の削減。


効率的だ。



澪は、

ふと立ち止まる。


理由はない。


理由が、

生成されなかった。


人の流れは、

自然に澪を避ける。


完璧な距離。

誰にも触れず、

誰も触れない。


「……」


澪は、

胸に手を当てる。


そこにあるのは、

感情ではない。


ただ、

「起きなかった」という事実の集積。


関係が、

始まらなかった痕跡。



その瞬間。


少し離れた場所で、

子どもが名前を呼ぶ。


「――」


だが、

名前が出てこない。


呼ぶべき相手は分かっている。

顔も、声も、関係も。


それでも、

名前だけが欠ける。


「……あれ?」


母親は笑って、

「どうしたの?」と聞く。


何事もなく、

会話は続く。


世界は、

言語処理の遅延として処理する。


異常なし。



だが。


恒一は、

それを見ていた。


世界の外縁で。


――始まったな。


澪は、

何もしていない。


拒否も、

選択も、

意思表示もない。


それなのに。


関係が生まれる“直前”だけが、

次々と空白になる。


恒一は、理解する。


――これは破壊じゃない。

――空白の伝播だ。


関係を持たなかった存在が、

関係の発生条件そのものを、

薄く汚染している。



世界は、

まだ気づかない。


なぜなら、

この歪みは「悪化」しない。


蓄積するだけだ。


小さく。

静かに。

成功の内部に。



澪は、また歩き出す。


何も変わっていないように見える。


街は動く。

人は流れる。

世界は安定している。


だが、

「次に起きるはずだった関係」だけが、

次々と欠け落ちていく。


世界は、

それを管理できない。


未発生のものは、

観測対象にならないからだ。



恒一は、

静かに息を吐く。


――世界は、もう戻れない。


成功を定義した世界は、

この空白を異常として扱えない。


そして、

この空白は、

確実に広がっていく。


澪の周囲から。

世界の内側へ。


関係が、

起きなかった世界が、

自分自身を侵食し始めている。


それが、

次に壊れる理由になる。


恒一は、まだ戻らない。


戻るのは――

世界が、

「成功とは何だったのか」

分からなくなった、その先だ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

感想やご意見など頂けますと、とても励みになりますので宜しければ是非お願い致します。

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