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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第二章 誤算の内側

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上書き不能領域

ここまでお読み頂きありがとうございます。


朝。


澪は、目を覚ました瞬間に分かった。


――昨日の続きだ。


何かが“戻っていない”。

夢の名残ではない、現実の何か。


部屋は静かだった。

音はある。

生活の音だ。


だが、その中に、

今まであったはずの気配が、ない。


「……恒一?」


声に出す。


返事は――


なかった。


胸が、きゅっと縮む。


昨日まで感じていた、

あの「まだ残っている」という確信。

それが、一段階、薄くなっている。


「……聞こえてる?」


澪は、もう一度問う。


沈黙。


声が届かないのではない。

“呼びかける相手”が、世界から曖昧にされている。


澪は、布団から起き上がった。



街に出る。


人は多い。

昨日と同じ朝。


なのに、違和感がある。


澪が歩くと、

人の視線が、微妙に合わない。


避けられているわけではない。

無視されているわけでもない。


ただ、

「誰かと一緒に歩いている前提」で

視界が構成されていない。


澪は、ふと立ち止まる。


――ここ、前にも立ち止まった。


理由を思い出せない。


立ち止まった事実だけが、

意味を失ったまま、残っている。


「……上書きか」


背後から、声がした。


澪は、振り向く。


誰もいない。


だが、今度は分かる。

はっきりと。


「恒一」


「……いる」


声は、遠い。

昨日より、さらに。


「…位置が、わからない」


「ああ」


恒一は、肯定した。


「俺の“位置情報”が、消された」


「声も?」


「もう、声すらも完全じゃない」


一拍。


「“澪が必要としたときだけ”残されてる」


澪の足元が、少しふらつく。


「それって」


「世界が、次の段階に入った」



世界は、関係を壊しきれなかった。


だから、

別の方法を選ぶ。


切断でも、忘却でもない。


上書きだ。


澪の中にある、

「恒一と一緒にいた感覚」。


それを消すのではなく、

別の“説明”で塗り替える。


《関係補正、開始》


《主観整合性、再構築》


澪の頭に、

唐突な感覚が差し込まれる。


――一人で考えていた。

――一人で決めてきた。

――いつも、一人だった。


「……違う」


澪は、低く言った。


「それ、違う」


頭の中の声ではない。

世界の用意した“自然な理解”だ。


澪は、壁に手をつく。


「私は」


息を吸う。


「一人だった時期はあった」


「でも」


一拍。


「“ずっと”じゃない」


声が、少し近づいた。


「……澪」


恒一だ。


弱い。

だが、確かだ。


「今のは」


「世界が、記憶じゃなく“解釈”を書き換えに来た」


澪は、歯を噛みしめる。


「卑怯だね」


「世界は、いつもそうだ」


恒一は言う。


「事実を消すより」


「意味を変える方が、安定する」



人混みの中で、

澪は、ふと立ち止まる。


胸の奥に、

まだ、何かが残っている。


形はない。

声も、ほとんどない。


でも。


「……私さ」


澪は、小さく言う。


「あなたの顔、思い出せない」


沈黙。


「声も」


「どんな表情で話してたかも」


「でも」


一拍。


「“あなたと一緒だった”って感覚だけは」


胸を押さえる。


「消えてない」


世界が、反応する。


《矛盾検出》


《補正不能領域、確認》


恒一の声が、

わずかに、震えた。


「それが」


「今の澪の、核心だ」


澪は、前を見る。


街は、相変わらず続いている。


「ねえ、恒一」


「なんだ」


「世界は」


澪は、静かに問う。


「これ以上、何をするつもり?」


恒一は、即答しなかった。


「……次は」


一拍。


「“関係が不要だった”という物語を、澪に与える」


澪は、目を細める。


「私が」


「あなたと出会わなくても」


「成立していたって?」


「ああ」


「それが、最終形だ」



澪は、立ち止まった。


そして、はっきりと言う。


「それ、受け取らない」


世界が、静まる。


「私は」


澪は、自分の胸に手を当てる。


「証明も、説明もできない」


「でも」


一拍。


「“不要じゃなかった”って感覚を、持ってる」


恒一の声が、確かにそこにあった。


「……澪」


「それは」


「世界にとって」


言葉が、少し重くなる。


「最も厄介な残存だ」


澪は、うなずいた。


「うん」


「知ってる」


だからこそ。


「まだ、壊れてない」


世界は、答えない。


上書きは進行している。

だが、完全には届かない。


澪の中にある、

名前も形も持たない“関係”が、

上書き不能領域として残っている。


世界は、初めて理解する。


――これは、誤差ではない。

――未定義でもない。


関係そのものが、世界の外側にある。


その事実が、

次の衝突を、静かに準備していた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

感想やご意見など頂けますと、とても励みになりますので宜しければ是非お願い致します。

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