上書き不能領域
ここまでお読み頂きありがとうございます。
朝。
澪は、目を覚ました瞬間に分かった。
――昨日の続きだ。
何かが“戻っていない”。
夢の名残ではない、現実の何か。
部屋は静かだった。
音はある。
生活の音だ。
だが、その中に、
今まであったはずの気配が、ない。
「……恒一?」
声に出す。
返事は――
なかった。
胸が、きゅっと縮む。
昨日まで感じていた、
あの「まだ残っている」という確信。
それが、一段階、薄くなっている。
「……聞こえてる?」
澪は、もう一度問う。
沈黙。
声が届かないのではない。
“呼びかける相手”が、世界から曖昧にされている。
澪は、布団から起き上がった。
⸻
街に出る。
人は多い。
昨日と同じ朝。
なのに、違和感がある。
澪が歩くと、
人の視線が、微妙に合わない。
避けられているわけではない。
無視されているわけでもない。
ただ、
「誰かと一緒に歩いている前提」で
視界が構成されていない。
澪は、ふと立ち止まる。
――ここ、前にも立ち止まった。
理由を思い出せない。
立ち止まった事実だけが、
意味を失ったまま、残っている。
「……上書きか」
背後から、声がした。
澪は、振り向く。
誰もいない。
だが、今度は分かる。
はっきりと。
「恒一」
「……いる」
声は、遠い。
昨日より、さらに。
「…位置が、わからない」
「ああ」
恒一は、肯定した。
「俺の“位置情報”が、消された」
「声も?」
「もう、声すらも完全じゃない」
一拍。
「“澪が必要としたときだけ”残されてる」
澪の足元が、少しふらつく。
「それって」
「世界が、次の段階に入った」
⸻
世界は、関係を壊しきれなかった。
だから、
別の方法を選ぶ。
切断でも、忘却でもない。
上書きだ。
澪の中にある、
「恒一と一緒にいた感覚」。
それを消すのではなく、
別の“説明”で塗り替える。
《関係補正、開始》
《主観整合性、再構築》
澪の頭に、
唐突な感覚が差し込まれる。
――一人で考えていた。
――一人で決めてきた。
――いつも、一人だった。
「……違う」
澪は、低く言った。
「それ、違う」
頭の中の声ではない。
世界の用意した“自然な理解”だ。
澪は、壁に手をつく。
「私は」
息を吸う。
「一人だった時期はあった」
「でも」
一拍。
「“ずっと”じゃない」
声が、少し近づいた。
「……澪」
恒一だ。
弱い。
だが、確かだ。
「今のは」
「世界が、記憶じゃなく“解釈”を書き換えに来た」
澪は、歯を噛みしめる。
「卑怯だね」
「世界は、いつもそうだ」
恒一は言う。
「事実を消すより」
「意味を変える方が、安定する」
⸻
人混みの中で、
澪は、ふと立ち止まる。
胸の奥に、
まだ、何かが残っている。
形はない。
声も、ほとんどない。
でも。
「……私さ」
澪は、小さく言う。
「あなたの顔、思い出せない」
沈黙。
「声も」
「どんな表情で話してたかも」
「でも」
一拍。
「“あなたと一緒だった”って感覚だけは」
胸を押さえる。
「消えてない」
世界が、反応する。
《矛盾検出》
《補正不能領域、確認》
恒一の声が、
わずかに、震えた。
「それが」
「今の澪の、核心だ」
澪は、前を見る。
街は、相変わらず続いている。
「ねえ、恒一」
「なんだ」
「世界は」
澪は、静かに問う。
「これ以上、何をするつもり?」
恒一は、即答しなかった。
「……次は」
一拍。
「“関係が不要だった”という物語を、澪に与える」
澪は、目を細める。
「私が」
「あなたと出会わなくても」
「成立していたって?」
「ああ」
「それが、最終形だ」
⸻
澪は、立ち止まった。
そして、はっきりと言う。
「それ、受け取らない」
世界が、静まる。
「私は」
澪は、自分の胸に手を当てる。
「証明も、説明もできない」
「でも」
一拍。
「“不要じゃなかった”って感覚を、持ってる」
恒一の声が、確かにそこにあった。
「……澪」
「それは」
「世界にとって」
言葉が、少し重くなる。
「最も厄介な残存だ」
澪は、うなずいた。
「うん」
「知ってる」
だからこそ。
「まだ、壊れてない」
世界は、答えない。
上書きは進行している。
だが、完全には届かない。
澪の中にある、
名前も形も持たない“関係”が、
上書き不能領域として残っている。
世界は、初めて理解する。
――これは、誤差ではない。
――未定義でもない。
関係そのものが、世界の外側にある。
その事実が、
次の衝突を、静かに準備していた。
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