代理観測者
ここまでお読み頂きありがとうございます。
世界は、人を使うことを選んだ。
それは新しい方法ではない。
むしろ、最も古く、最も確実な手段だった。
澪が直接観測できないなら、
澪を観測しようとする“意思”を、他者に持たせればいい。
世界は、それを「選択」と呼ばなかった。
ただの、最適化だ。
⸻
朝。
澪が街に出ると、空気の質が、はっきり変わっていた。
「……見られてる」
視線だ。
だが、以前のような無意識の一瞬ではない。
意図を伴った視線。
探すような。
確かめるような。
「始まったな」
恒一の声は、いつになく硬い。
「何が?」
「代理観測だ」
澪は、歩きながら周囲を見る。
カフェの窓際。
横断歩道の向こう。
路地の影。
誰も、露骨には見てこない。
だが、“見ようとしている”気配が、そこかしこにある。
「……普通の人だよね」
「ああ」
恒一は言う。
「選ばれたわけでも、特別でもない」
一拍。
「ただ、“違和感を覚えやすい状態”にされている」
澪の眉が、わずかに動く。
「それって」
「澪に近づくと、理由のない引っかかりが残る」
「世界は、それを“観測ログ”として回収する」
澪は、息を吐いた。
「最低…」
「今さらだ」
⸻
通りの角で、若い男が立ち止まっていた。
伏目がちに、辺りを窺っている。
澪が近づくと、
男の視線が、ゆっくりと上がる。
一瞬、目が合う。
「……」
男は、何か言いかけて、口を閉じた。
「すみません」
数秒遅れて、そう言う。
「今、ちょっと……」
言葉を探す。
「夢を見てるみたいで」
澪は、立ち止まった。
恒一が、すぐに言う。
「澪、距離を取れ」
だが、もう遅い。
男の目が、澪を捉えている。
逃がさない、というより、
“理解しようとしている”目だ。
「あなた」
男は、確信のない声で言う。
「何か……おかしくないですか?」
澪は、胸の奥が、ひやりとするのを感じた。
これまでの問いとは、違う。
「おかしい」の主語が、
世界ではなく、
澪に向けられている。
《代理観測、安定》
《主観ログ、取得開始》
世界が、静かに噛み合う音がした。
「……恒一」
「分かってる」
恒一の声が、低くなる。
「今のは」
一拍。
「“成功例”だ」
⸻
澪は、男から一歩、下がった。
「ごめんなさい」
「え?」
「人違いです」
それだけ言って、背を向ける。
男は、追ってこない。
だが、その場に立ち尽くしたまま、
澪の背中を、ずっと見ている。
視線が、刺さる。
澪は、早足になる。
「これが、続くの?」
「ああ」
恒一は、即答する。
「世界は、澪を理解できない」
「だから」
一拍。
「理解しようとする人間を、増やす」
澪は、歯を噛みしめる。
「それ、壊れるよ」
「壊れる」
恒一は、否定しない。
「だが世界は、個人の破損を“許容誤差”として扱う」
⸻
広場。
人が集まっている。
誰かが倒れたわけでも、
事件が起きたわけでもない。
ただ、皆、同じ方向を見ている。
澪のいる方角だ。
ざわめきが、ざらついている。
「……やめて」
澪は、小さく呟く。
一人の女が、前に出る。
目が合う。
女は、笑おうとして、失敗する。
「変なこと、聞いてもいいですか?」
澪は、答えない。
答えられない。
女は、続ける。
「あなたを見てると」
喉が、鳴る。
「私が、私じゃなくなる気がして」
周囲が、息を詰める。
《影響連結、確認》
《集団観測、成立寸前》
恒一が、強く言った。
「澪、離脱しろ!」
澪は、反射的に後ずさる。
その瞬間。
ざわめきが、波のように広がった。
「あ……」
「今の……」
「何だった?」
人々の中に、
同時に、同じ“欠落”が生まれる。
世界が、過剰に回収した。
⸻
澪は、路地裏に逃げ込む。
呼吸が、乱れている。
「……私」
声が、震える。
「もう、隠れられない?」
恒一は、答えなかった。
否定できなかった。
「世界は、澪を“現象”から“問題”に格上げした」
「問題は」
一拍。
「解決される」
澪は、壁に手をつく。
冷たい。
「ねえ、恒一」
「なんだ」
「あなたは」
澪は、顔を上げる。
「それでも、世界の側?」
恒一は、沈黙した。
長い沈黙だった。
そして、静かに言う。
「……俺は」
言葉が、途切れる。
「澪を、観測できてしまっている」
その一言で、
すべてが変わった。
澪は、ゆっくり目を見開く。
「それって」
「そうだ」
恒一は、認める。
「俺はもう、中立じゃない」
世界が、
新しい変数を認識する。
《追加対象、検出》
《観測経路、再計算》
澪と恒一。
二つの未定義が、並んだ瞬間だった。
世界は、初めて躊躇する。
そして――
より強硬な選択肢を、
静かに、準備し始めた。
次に壊れるのは、
“世界”か、
“関係”か。
その区別すら、
もう、曖昧になりつつあった。
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