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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第1章 観測者の立つ場所

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街は、確かに存在している

お読み頂きありがとうございます。

地味な話が数話続きますが、もう少しだけ、お付き合い頂けますと幸いです。


街道は、想像していたよりもずっと素朴だった。

舗装はされておらず、土と砂利が踏み固められただけの道が、緩やかなカーブを描きながら続いている。足を運ぶたび、乾いた音が靴底から返ってきた。


それだけで、少しだけ安心する。

音がある。感触がある。

少なくとも、この場所では、世界は確かに「存在」しているらしい。


遠くに見えていた建物の影は、歩くにつれて少しずつ輪郭を明確にしていった。

低い石造りの家屋が並び、赤茶けた瓦屋根が陽を反射している。街の外縁らしく、どこか雑然としてはいるが、廃墟というほど荒れてはいない。


――人が、いる――


その事実を認識した瞬間、胸の奥で忘れかけていた何かが、強く蠢いた。

生きている者同士が作る気配。

声、足音、笑い声。かすかだが、確かに届いてくる。


「っ……」


無意識に、喉が鳴った。

ここに来て初めて、自分が“人の中に入る”のだという実感が湧いた。


あの声だけの存在の言葉が、脳裏をよぎる。


《そこで、人として振る舞え》


それは忠告だったのか、それとも条件提示だったのか。

どちらにせよ、今の自分には、それしか選択肢がない。


街の入り口には、特別な門はなかった。

道が自然に広がり、建物が増え、気づけばもう街の中に立っている。

境界線は曖昧で、だからこそ現実味があった。


最初にすれ違ったのは、荷車を引く中年の男だった。

筋張った腕、日に焼けた顔。こちらを一瞥し、特に警戒も好奇も見せずに通り過ぎていく。


次に、二人連れの子供。

何かを追いかけるように駆けていき、すれ違いざまにこちらを見上げて、すぐに興味を失う。


――見られてはいる。だが、見られすぎてもいない。


その距離感が、妙に現実的だった。

異物として弾かれていない。それでいて、特別扱いもされていない。


「……普通、か」


口に出してから、少しだけ可笑しくなる。

死んだはずの自分が、異世界のような場所で「普通」を基準に安心している。その事実自体が、すでに普通ではないのに。


街の中央に近づくにつれ、人の往来が増えていく。

露店らしきものが並び、布や果物、用途の分からない金属製品が無造作に置かれている。

言葉も、ちゃんと聞き取れた。


――意味が分かる――


言葉が、自然に頭へ入ってくる。

日本語ではない。だが、理解できないという感覚もない。


それを不思議だと感じる前に、当たり前として受け入れてしまっている自分自身に、恒一は軽い怖気を覚えた。


「……適応、か」


あの声の言っていた「適応」という言葉が、現実の形を伴って迫ってくる。


露店の前で足を止める。

並べられているのは、丸く乾いた果実のようなものだった。色は淡く、見た目はリンゴに近いが、香りはほとんどしない。


「それ、食べられるのか?」


試しに声をかけると、店番をしていた女性が顔を上げた。

年の頃は二十代半ば。素朴だが、よく働く手をしている。


「食べられるわよ。旅の人?」


「ああ……まあ、そんなところだ」


即座に嘘をついた自覚はあったが、言い直す必要も感じなかった。

旅人。便利な立場だ。その一言で事足りる。


女性は特に深く追及せず、果実を一つ持ち上げてみせた。


「街に入ったばかりなら、宿を探すといいわ。ここは外から来る人も多いから」


「……この街は、そういう場所なのか?」


「境目だからね」


その一言に、引っかかりを覚える。


「境目?」


問い返すと、彼女は少し考えるような顔をした。


「王都と、それ以外の。商人も傭兵も、みんな一度はここを通る。だから、珍しくはないのよ」


境目。

世界の、ではなく、国や勢力の境目らしい。


それを聞いて、久我は少しだけ肩の力を抜いた。

少なくとも、この街は「異物」を前提にした構造を持っている。


「ありがとう。助かった」


礼を言って立ち去ろうとしたとき、彼女がふと、こちらを見つめた。


「……ねえ」


「?」


「あなた、名前は?」


一瞬、間が空いた。


頭の中で、あの静かな空間がよぎる。

名前だけが、自分を繋ぎ止めていた感覚。


「久我……恒一だ」


口にした瞬間、わずかな重みが胸に落ちた。

まだ、失われてはいない。


「そう」


彼女はそれ以上、何も言わなかった。

だが、どこか安心したように微笑んだのが、なぜか印象に残った。


街をさらに進み、宿屋らしき建物を見つける。

木製の扉、擦り切れた看板。決して新しくはないが、人の出入りは多い。


中に入ると、暖かな空気とざわめきが迎えた。

食事をとる者、酒を飲む者、何やら真剣に話し込む者。


――生きている――


その事実が、ここでは何度も突きつけられる。


カウンターの奥にいた宿主に声をかけ、部屋を借りる。

簡素な部屋だったが、寝台があり、扉があり、窓がある。それで十分だった。


一人になると、急に疲労が押し寄せてくる。

身体的な疲れではない。精神の、摩耗。


寝台に腰を下ろし、天井を見上げる。


「……この世界は、普通だな」


普通であることが、こんなにも不安を伴うとは思わなかった。

管理者の言葉がなければ、ここが壊れかけている世界だとは、誰も思わないだろう。


だが、確かに感じている。

音の裏にある違和感。

人の営みの隙間にある、わずかな空白。


――何かが、足りない――


それが何なのかは、まだ分からない。

だが、自分がそれを「観測する側」に置かれているという事実だけは、はっきりしていた。


恒一は、ゆっくりと目を閉じる。

この街で、人として過ごすために。


世界が、静かに軋む音を、聞き逃さないために。

楽しくなってきちゃったので、1日最低1話更新で行きます。

誤字等あれば教えて頂けますと幸いです。

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