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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第1章 観測者の立つ場所

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均衡処理

ここまでお読み頂きありがとうございます。


夕暮れは、ついに夜へと傾いた。


だが、完全な闇は訪れない。

街には灯りがあり、人がいて、生活が続いている。


それなのに――

恒一には、世界が“息を止めている”ように感じられた。


音はある。

だが、音が「届かない」。


人の声は空気を震わせるだけで、意味として残らない。

足音は地面を叩くだけで、痕跡を刻まない。


――処理中だ。


恒一は、はっきりと理解していた。


世界は今、

「例外」と「観測者」を同時に扱うための再計算を行っている。


それは、

どちらかを救う計算ではない。


どちらを削るかを決める計算だ。



澪は、恒一のすぐ隣にいた。


だが、距離の感覚がおかしい。


触れていないのに近すぎる。

離れていないのに遠すぎる。


「……ねえ」


澪が、声を落とす。


「今」


「なんだ」


「私、ここにいるよね?」


問いというより、確認だった。


恒一は、すぐには答えなかった。


“いる”と言うには、

澪の輪郭はまだ不安定だ。


だが、“いない”と言うには、

世界はすでに澪を無視できなくなっている。


「……いる」


恒一は、慎重に言った。


「ただし」


「ただし?」


「世界の中じゃない」


澪は、苦笑した。


「それ、前よりひどくない?」


「正確になっただけだ」


《均衡処理、進行》


今回は、もはや隠そうともしない。


情報は、

警告ではなく“事務連絡”として流れ込んでくる。


《例外: 澪

存在確定度:63%》


《観測者:久我恒一

役割保持率:41%》


数字。


冷たいが、正直だ。


澪が、目を見開く。


「……数字、見えるの?」


「見える」


「私のも?」


「ああ」


澪は、少しだけ安心したように息を吐いた。


「よかった」


「何がだ」


「私だけじゃない」


恒一は、胸の奥が少しだけ軋むのを感じた。


その感覚自体が、

もう観測者としては“余分”なものだった。



街を歩く人々は、

二人に気づいていない。


正確には、

気づこうとしない。


視線が、微妙に逸れる。

足取りが、無意識にずれる。


世界が、人間を使って

二人を避けている。


「ねえ、恒一」


「なんだ」


「私が、もっと呼ばれたら」


澪は、真剣な声で言う。


「この数字、上がる?」


「上がる」


「じゃあ」


「下がるものもある」


恒一は、即答した。


澪は、黙った。


それが、何かは聞かなくても分かる。


《是正措置、準備段階》


《対象:観測者 久我恒一》


その瞬間。


恒一の視界から、

街の“情報”が一部、抜け落ちた。


人の顔が、

名前を持たない輪郭に変わる。


看板の文字が、

意味を持たない線の集合になる。


「……来たか」


恒一は、足を止めた。


澪も、立ち止まる。


「何が?」


「俺の“世界の見え方”が削られてる」


「それって……」


「観測者の特権だ」


恒一は、静かに言う。


「世界を、世界として認識する力」


それがなければ、

人は“そこにいるだけの存在”になる。


澪の喉が、かすかに鳴った。


「……私のせいだ」


「違う」


恒一は、強く否定する。


「俺が、手を離さなかった」


それは、誇りでも後悔でもない。

ただの事実だった。



《最終是正措置、提示》


選択肢は、もはや三つもない。


《観測者の役割を解除

→ 記録存在へ移行》


それは、

“見る者”から“記録される者”になるということ。


名前は、

必要ない。


澪が、息を呑む。


「……それって」


「消えるわけじゃない」


恒一は、淡々と説明する。


「ただ、“誰か”としては扱われなくなる」


「それは……」


澪の声が、震えた。


「名前を失うってこと?」


「そうだ」


恒一は、頷いた。


「久我恒一は、世界にとって不要になる」


《実行確認待ち》


時間が、引き延ばされる。


世界は、

最後の猶予を与えているつもりなのだろう。


だがそれは、

選択を急かすための猶予だ。


澪が、ゆっくりと口を開く。


「ねえ、恒一」


「なんだ」


「私、呼ばれたかった」


正直な声だった。


「でも」


澪は、恒一を見る。


「あなたが、いなくなるくらいなら」


言葉が、詰まる。


「……そんなの、間違ってる」


恒一は、初めて、はっきりと笑った。


「間違ってない」


「え…」


「それは、選択だ」


澪の目に、涙が滲む。


「選びたくない……」


「それでも、選ぶ」


恒一は、静かに言った。


「それが、存在するってことだ」



《是正措置、実行》


その瞬間。


恒一の中から、

“名前”という感覚が剥がれ落ち始めた。


久我、という音。

恒一、という識別。


それらが、

ただの符号に変わっていく。


「……っ」


膝が、わずかに揺れる。


澪が、思わず手を伸ばしかけて――

止まる。


触れれば、

もう戻れない。


恒一は、最後に言った。


「澪」


その呼びかけは、

世界ではなく、澪だけに届く。


「呼ばれるな」


澪は、泣きながら頷いた。


「……うん」


《観測者 久我恒一

役割解除、進行》


世界は、静かだった。


壊れる音も、光もない。


ただ、

一つの名前が、世界の帳簿から消えていく。


だが。


澪の中には、

確かにその名前が残っていた。


世界が忘れても、

誰かが覚えている限り。


存在は、

完全には消えない。


――それが、

次に世界が直面する“誤算”だとも知らずに。


均衡処理は、完了に向かっていた。


だが、物語はまだ、終わらない。


ここから先は、世界が想定していない物語。


(第一章・了)

最後までお読みいただき、ありがとうございました

ここで一旦第一章としては区切りとなります。

この後も第二章に入りますので、是非よろしくお願いします。

感想やご意見など頂けますと、とても励みになりますので宜しければ是非お願い致します。

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