均衡処理
ここまでお読み頂きありがとうございます。
夕暮れは、ついに夜へと傾いた。
だが、完全な闇は訪れない。
街には灯りがあり、人がいて、生活が続いている。
それなのに――
恒一には、世界が“息を止めている”ように感じられた。
音はある。
だが、音が「届かない」。
人の声は空気を震わせるだけで、意味として残らない。
足音は地面を叩くだけで、痕跡を刻まない。
――処理中だ。
恒一は、はっきりと理解していた。
世界は今、
「例外」と「観測者」を同時に扱うための再計算を行っている。
それは、
どちらかを救う計算ではない。
どちらを削るかを決める計算だ。
⸻
澪は、恒一のすぐ隣にいた。
だが、距離の感覚がおかしい。
触れていないのに近すぎる。
離れていないのに遠すぎる。
「……ねえ」
澪が、声を落とす。
「今」
「なんだ」
「私、ここにいるよね?」
問いというより、確認だった。
恒一は、すぐには答えなかった。
“いる”と言うには、
澪の輪郭はまだ不安定だ。
だが、“いない”と言うには、
世界はすでに澪を無視できなくなっている。
「……いる」
恒一は、慎重に言った。
「ただし」
「ただし?」
「世界の中じゃない」
澪は、苦笑した。
「それ、前よりひどくない?」
「正確になっただけだ」
《均衡処理、進行》
今回は、もはや隠そうともしない。
情報は、
警告ではなく“事務連絡”として流れ込んでくる。
《例外: 澪
存在確定度:63%》
《観測者:久我恒一
役割保持率:41%》
数字。
冷たいが、正直だ。
澪が、目を見開く。
「……数字、見えるの?」
「見える」
「私のも?」
「ああ」
澪は、少しだけ安心したように息を吐いた。
「よかった」
「何がだ」
「私だけじゃない」
恒一は、胸の奥が少しだけ軋むのを感じた。
その感覚自体が、
もう観測者としては“余分”なものだった。
⸻
街を歩く人々は、
二人に気づいていない。
正確には、
気づこうとしない。
視線が、微妙に逸れる。
足取りが、無意識にずれる。
世界が、人間を使って
二人を避けている。
「ねえ、恒一」
「なんだ」
「私が、もっと呼ばれたら」
澪は、真剣な声で言う。
「この数字、上がる?」
「上がる」
「じゃあ」
「下がるものもある」
恒一は、即答した。
澪は、黙った。
それが、何かは聞かなくても分かる。
《是正措置、準備段階》
《対象:観測者 久我恒一》
その瞬間。
恒一の視界から、
街の“情報”が一部、抜け落ちた。
人の顔が、
名前を持たない輪郭に変わる。
看板の文字が、
意味を持たない線の集合になる。
「……来たか」
恒一は、足を止めた。
澪も、立ち止まる。
「何が?」
「俺の“世界の見え方”が削られてる」
「それって……」
「観測者の特権だ」
恒一は、静かに言う。
「世界を、世界として認識する力」
それがなければ、
人は“そこにいるだけの存在”になる。
澪の喉が、かすかに鳴った。
「……私のせいだ」
「違う」
恒一は、強く否定する。
「俺が、手を離さなかった」
それは、誇りでも後悔でもない。
ただの事実だった。
⸻
《最終是正措置、提示》
選択肢は、もはや三つもない。
《観測者の役割を解除
→ 記録存在へ移行》
それは、
“見る者”から“記録される者”になるということ。
名前は、
必要ない。
澪が、息を呑む。
「……それって」
「消えるわけじゃない」
恒一は、淡々と説明する。
「ただ、“誰か”としては扱われなくなる」
「それは……」
澪の声が、震えた。
「名前を失うってこと?」
「そうだ」
恒一は、頷いた。
「久我恒一は、世界にとって不要になる」
《実行確認待ち》
時間が、引き延ばされる。
世界は、
最後の猶予を与えているつもりなのだろう。
だがそれは、
選択を急かすための猶予だ。
澪が、ゆっくりと口を開く。
「ねえ、恒一」
「なんだ」
「私、呼ばれたかった」
正直な声だった。
「でも」
澪は、恒一を見る。
「あなたが、いなくなるくらいなら」
言葉が、詰まる。
「……そんなの、間違ってる」
恒一は、初めて、はっきりと笑った。
「間違ってない」
「え…」
「それは、選択だ」
澪の目に、涙が滲む。
「選びたくない……」
「それでも、選ぶ」
恒一は、静かに言った。
「それが、存在するってことだ」
⸻
《是正措置、実行》
その瞬間。
恒一の中から、
“名前”という感覚が剥がれ落ち始めた。
久我、という音。
恒一、という識別。
それらが、
ただの符号に変わっていく。
「……っ」
膝が、わずかに揺れる。
澪が、思わず手を伸ばしかけて――
止まる。
触れれば、
もう戻れない。
恒一は、最後に言った。
「澪」
その呼びかけは、
世界ではなく、澪だけに届く。
「呼ばれるな」
澪は、泣きながら頷いた。
「……うん」
《観測者 久我恒一
役割解除、進行》
世界は、静かだった。
壊れる音も、光もない。
ただ、
一つの名前が、世界の帳簿から消えていく。
だが。
澪の中には、
確かにその名前が残っていた。
世界が忘れても、
誰かが覚えている限り。
存在は、
完全には消えない。
――それが、
次に世界が直面する“誤算”だとも知らずに。
均衡処理は、完了に向かっていた。
だが、物語はまだ、終わらない。
ここから先は、世界が想定していない物語。
(第一章・了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました
ここで一旦第一章としては区切りとなります。
この後も第二章に入りますので、是非よろしくお願いします。
感想やご意見など頂けますと、とても励みになりますので宜しければ是非お願い致します。




