観測者が名前を失う日
ここまでお読み頂きありがとうございます。
今夜も行けるところまで行きます。
夕暮れは、思ったよりも早く訪れた。
昼のざわめきが嘘のように、
街は静かに色を落としていく。
赤と橙の境目。
昼でも夜でもない、不安定な時間。
恒一は、人の流れの中を歩いていた。
人に紛れる。
情報に溶ける。
視線の密度を上げ、観測を分散させる。
理屈は、正しい。
だが――
「……効いてない」
澪が、低く言った。
「気づいたか」
「うん」
澪は、周囲を見渡す。
人は多い。
声もある。
笑い声、呼び声、足音。
それでも――
「この感じ」
澪は、胸元を押さえる。
「見られてる、じゃない」
恒一は、答えを知っていた。
「数えられてる」
「……数?」
「ああ」
恒一は、立ち止まる。
人の流れが、二人を避けるように割れる。
偶然を装った、微細な回避。
「観測対象じゃない」
「じゃあ、何?」
「観測条件だ」
澪は、息を呑んだ。
条件。
それは、存在の前提。
“どう扱うか”を決めるための材料。
《均衡再計算、進行中》
今回は、隠しもしない。
意味が、直接流れ込んでくる。
《例外 澪
存在安定度:暫定》
《観測者 久我恒一
役割信頼度:低下》
恒一の喉が、わずかに鳴る。
――始まったな。
澪が、恐る恐る聞く。
「……恒一」
「なんだ」
「今のって」
「評価だ」
「どっちの?」
「両方だ」
《警告》
《例外へ観測者の関与過多を確認》
《是正措置、検討段階へ移行》
街の音が、一段階遠のく。
恒一の視界が、わずかに歪んだ。
「……っ」
一瞬、足元が揺らぐ。
澪が、とっさに一歩近づく。
「大丈夫!?」
「触るな」
反射的に強く言ってしまった。
澪の手が、宙で止まる。
「……ごめん」
恒一は、すぐに後悔した。
「いや、違う」
だが、言葉が続かない。
触れられない理由を、
今は説明できない。
触れれば、
“関係性”が確定する。
それは――
澪を守るために、今、一番避けるべきことだった。
《観測者の身体感覚、異常検知》
《役割乖離、進行》
恒一は、深く息を吐く。
「……削られてる」
澪は、顔を上げる。
「何が?」
「俺だ」
「え?」
「観測者としての、俺」
澪は、言葉を失った。
恒一は、静かに続ける。
「世界は今、俺を“必要最低限”に戻そうとしてる」
「戻す……?」
「本来の役割は、記録と監視だけだ」
「でも」
澪は、唇を噛む。
「今は?」
「介入してる」
否定しない。
「選んでる」
澪の胸が、痛む。
自分の所為だと、
理解してしまったから。
「……私が」
「違う」
恒一は、すぐに言う。
「“選んだ”のは、俺だ」
《観測者の自己責任判断、記録》
《是正措置の必要性、上昇》
空気が、重く沈む。
澪は、静かに言った。
「じゃあ」
「なんだ」
「このままいくと」
澪は、まっすぐ恒一を見る。
「恒一は、どうなるの?」
恒一は、少し考えてから答えた。
「名前を、失う」
「……え」
「正確には」
恒一は、言葉を選ぶ。
「“久我恒一”として観測されなくなる」
澪の呼吸が、止まる。
「それって……」
「観測者じゃなくなる」
「人にも?」
「分からない」
だが、可能性は高い。
役割が剥がれれば、
世界における位置も、曖昧になる。
澪は、震える声で言う。
「そんなの」
「代償だ」
恒一は、即答した。
「呼ばれないための」
《観測者の役割維持、最終確認段階》
《代替案、提示》
脳内に、冷たい選択肢が並ぶ。
――例外との距離を断つ
――介入履歴を抹消
――観測者の中立性を回復
要するに。
澪を、切り離せ。
恒一は、笑いそうになった。
――分かりやすいな。
「拒否する」
今回は、はっきりと意志を乗せた。
《拒否、確認》
《理由:個人的判断》
《……》
沈黙。
世界が、迷っている。
澪が、震える声で言う。
「ねえ、恒一」
「なんだ」
「もし」
澪は、一歩、前に出る。
「もし、あなたが名前を失うくらいなら」
恒一の目が、見開かれる。
「澪、待て」
だが、澪は止まらない。
「今度は、私が選ぶ」
《例外による意思表明、検知》
空気が、張り裂ける。
「私が…」
澪は、胸に手を当てる。
「呼ばれる。」
恒一の思考が、凍る。
「それで、終わりにする」
澪から紡がれるその声には、静かな決意が宿っていた。
《例外の自己確定、予兆》
「澪!」
恒一は、思わず声を張り上げた。
それは――
完全な“呼びかけ”だった。
一瞬、世界が静止する。
《……》
次の瞬間。
街の音が、一斉に戻る。
人の声。
足音。
笑い声。
だが――
澪の輪郭が、確かに、はっきりとした。
「……あ」
澪自身が、驚いたように呟く。
「今」
自分を、感じている。
恒一は、息を呑む。
《例外 澪
存在確定度、急上昇》
《観測者 久我恒一 介入過多、確定》
《是正措置、実行判断へ》
世界は、結論を出した。
――両立は、不可能。
恒一は、澪の前に立つ。
「……まだだ」
「恒一」
「まだ、終わらせない」
澪は、泣きそうな顔で笑った。
「ずるいね」
「知ってる」
「でも」
澪は、小さく言う。
「それでも…呼ばれたい」
恒一は、答えられなかった。
呼ばれることは、
存在を得ること。
だが同時に、
失うことでもある。
世界は、二人を見ている。
どちらを残すか。
どちらを削るか。
あるいは――
観測という仕組みそのものを、壊すのか。
夕暮れは、完全に沈みきらない。
決断の時間だけが、
無限に引き伸ばされていた。
次に失われるのは、
名前か。
役割か。
それとも――
世界が、選択を誤る瞬間か。
答えは、もうすぐ。
呼ばれる、その直前まで来ている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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